2014年06月30日

カット割の基礎

映画の単位は、カットだろうか、シーンだろうか。
それは、カット割の基礎を知ってから考えるべきことである。

映画の撮り方には二種類ある。
シングルキャメラとマルチキャメラだ。
この方法では、カット割の考え方がまるで違う。


映画は伝統的に、カメラは一台だった。

高価なこともあるし、視点はひとつだから、
監督はカメラの脇にいるものだった。
今でも世界の殆どの映画は、日本も含めシングルキャメラで撮られている。
複数の台数のカメラは、一台あたり数名がつくから、
複数×複数のスタッフィングが必要で、従ってコストがかかり、
あまり採用されない。
マルチキャメラが日常的なのは、ハリウッドだけだ。
(ハリウッド技術輸入に特化した、韓国やタイでも、
ビッグバジェットならマルチを使うこともある)

シングルキャメラでは、
ヨーイスタートからカットまでが1カットだ。

監督だけがどこからどこまでをひとつのカットにするかの権限をもち、
そのイメージの芝居、もしくはイメージ以上の芝居を現場でつくってゆく。
カットのスタート地点は、シーン上のある点からだ。
そこからスタートする場合もあるし、ひとつ前の会話からはじめて、テンションを合わせていくやり方もある。
いずれにせよ、ヨーイスタートからカットまでは、
シーンの一部を撮っている。
OKはひとつしかない。
前のOKと今のOKが繋がらないと、意味をなさないからだ。
(下手な監督は、カットが変わったら芝居のテンションが変わったりする。
現場で気づけなかったか、コントロールしきれなかったのだ)

これとマルチキャメラの考え方は、
全く違う。

マルチキャメラとは、3〜5台を標準に、
複数のカメラで同時に撮ってしまうことをいう。
(マイケルベイは7〜11台を同時に使うらしい)
ひとつのシーンの、頭から尻までを通しで演じる。
ヨーイスタートはシーン冒頭であり、
カットで終わるのはシーンが終わったときだ。
ヒキもヨリも、切り返しも移動ショットも、
同じ芝居が頭からケツまで、撮られているのである。

同じ芝居を頭からケツまでおさめた、別角度の素材が、
一度に3〜5アングルあるのだ。
編集時は、スイッチングのように、
あるところからあるところまでをAのアップ、
次をBとCのツーショット、次にヒキ、などに自由に繋ぐことができる。

編集時にカット割りを変えることも出来る。
ここはAのアップのつもりだったが、
ヒキで粘った方がいい、のような変更は、
シングルキャメラでは出来ない。撮ってないからだ。
現場のカメラの台数だけアングルがあるから、
その範囲内なら、無限にカット割りを試すことすら可能だ。
(容易に想像できるように、デジタル編集の普及によって、
優柔不断が増えている)

マルチキャメラは、元々「保険」という考え方で導入されたものだ。
ハリウッドでも、モノクロ時代はほぼシングルキャメラで撮られていたが、
芝居のテンションが合わないとか、
切り返したらものの配置がおかしい、
とか、色々な事故を防ぐためにマルチになったのだ。
同じテイクの芝居を繋げば、少なくともその事故は防げる。
その保険的考え方から、今でも「カバレージ」という。
本命はこのアングルのカット割りを考えているが、
カバレージで4台回す、みたいな使い方をされる。
(Shot by Shotというとてもいい本があるのだが、
カバレージを「撮影範囲」と誤訳しているため、
非常に分かりにくい訳となっている。
他のカメラで撮っていた別アングルショット、
などのように訳すべきだ)
この考え方でシングルキャメラを見ると、
別アングルなど撮っていない、ということになる。

また、マルチキャメラは、意図しない現場の奇跡を撮ることもできる。
メインカメラ以外で俳優がいい表情をしたとか、
ある種の偶然が3番カメラだけ撮れていた、とか。
あるいは、二度出来ないものはマルチキャメラで回す。
危険なアクション、爆発を複数台で回すのは分かりやすい。

日本や香港のアクションは、シングルキャメラで1カットずつ撮っていく。
Aが殴る→切り返してBが殴られる→引いてBが倒れ反撃に殴る→Aが殴られる、
を、現場でカットを割りながら、少しずつ撮っていく。
ヨーイスタート、殴る、カット、
ヨーイスタート、殴られる、カット、
ヨーイスタート、殴られて倒れ、反撃へ、殴る寸前でカット、
ヨーイスタート、殴られる、カット、だ。
一方マルチなら、殴って吹っ飛び殴り返す、までを一連で撮る。
ヨーイスタート、殴る、倒れる、反撃、カット、だ。
同時に4台で撮って、あとでカット割りしながら繋ぐだけだ。

シングルキャメラによるカット割は、段取りの美である。
美しく出来ればそれが最も正解、という知的な煮詰め方をする。
マルチキャメラによるカット割は、アドリブ的だ。
ノリでやり、ノリで繋ぐ、動物的方法論になる。

俳優にとっては、マルチは一連だからやりやすい。
いちいちカットをかけられるより、流れを作りやすいからだ。
カット割りに縛られることなく、
間やテンポも、俳優自身のものを使える。その生理的な部分は大きい。
(逆に日本のスタントマンは、短いほうが集中できていいのが出来るという人もいる)


さて、これが芝居になると、さらに変わってくる。
アクションなどの危険なものと違って、
芝居は何回でもトライできる。
だから、「芝居をテイクごとに変えて撮る」ことがハリウッドの常識だ。
台詞のニュアンス、台詞の解釈、間、目線、表情、動作、段取り、
全てをテイクごとに変えていい。
台詞をテーブルで言っていた芝居を、言いながら立ち、
窓のそばに歩いて行き、台詞を言い終える、などの導線を変更することすらある。
ヨーイスタート前に打ち合わせてやることもあるし、
わざと本番中にアドリブをかまして反応を引き出すこともある。
これは、頭からケツまで撮る前提だからこそ、試せる方法だ。

だからマルチキャメラのOKテイクはテイクNだとすると、
その芝居の各アングルを選んでカット割することになる。
テイクNの、カメラ1→カメラ5→カメラ3のような繋ぎ方だ。
一方シングルキャメラのOKテイクは、それぞれのカットでバラバラだ。
カット1のテイク4→カット2のテイク1→カット3のテイク6…
のように繋いでいく。


ハリウッド映画では、リハーサルといって、
数ヶ月を役作りのために役者を拘束出来る。
その間、演劇の練習のように、何度も役を試し、
演出と相談したりぶつかったりしながら、
役をリアルなものにしていく期間がある。
(組合的には3から6週間だったか)
だから現場では、色々試した方法の中で、
ベストの芝居へ向かっていけるのだ。
前やってみたアレやってみようぜ、という提案もすぐ出来るのだ。
また、俳優には芝居のニュアンスを変える技能が求められる。
テイクを重ねるということは、
色々やってみる、やってみせる、という考え方である。

一方シングルキャメラの芝居は、
監督の思うベストを作り出すことだ。
ニュアンスはひとつしかなく、そこへ向かっていくことが芝居である。

ハリウッドの俳優は声色をたくさん持ち、
どんなバリエーションも沢山持っているが、
日本の俳優は、正解をひとつしか持っていないし、
それを売ろうとする。

それはいい悪いではなく、
マルチキャメラかシングルキャメラかの違いなのだ。


「ゴースト/ニューヨークの幻」のワンシーンの話。
殺された主人公サムは幽霊になって、
残された恋人モーリーの部屋にいる。生きている人間には誰も見えない。
モーリーはサムを思い出し悲しむ。
そこへ親友が訪ねてきてなぐさめる。
その情にほだされ、死んだ人を思ってもしょうがない、
とモーリーが唇を許しそうになる場面だ。
我々観客はこの時点で、サムを殺したのはこの親友であることを知っていて、
モーリーだけがその事実を知らない。
親友はなんて卑劣な奴だ、モーリー騙されないで!と観客が思わなくてはならない。

ここでは、脚本に台詞は書いてあるものの、
具体的な芝居は書いていなかった。
そこで、監督と俳優が、どうやったら親友の卑劣さを表現できるかという芝居を工夫した。
彼女には一見自然に見えるが、文脈が分かっている観客には、
汚い男、と見えるような芝居だ。

半日の試行錯誤ののち、
親友が彼女が見てない隙に、シャツにコーヒーをこぼし、
あわててシャツを脱いで半裸になる、
彼女の嘆きを上半身裸のまま聞いてあげて、
距離を縮め、半裸で抱きつこうとする、という芝居に落ち着いた。
計画的なゲスである。

この一連は、脚本にはなかった。
これを、現場で撮りながら試行錯誤出来るのが、
マルチキャメラのいいところだ。
この芝居に落ち着くまで、半日このシーンの頭からケツまで、
ニュアンスや導線を変えながら撮っていたそうだ。
シングルキャメラなら、一連の芝居を朝に決めたら、
それから外れることは出来ない。

役者や芝居にとって、マルチキャメラは(予算と時間があれば)
とてもいい。
しかし、撮影や美術にとっては、シングルキャメラのほうがいい絵が撮れる。
視点はひとつだから、その絵を粘って作れるからだ。
例えば木村大作の「剣岳」は、伝統的シングルキャメラならではの、
緻密に作り込んだ絵のオンパレードだ。
(その代わり芝居はだめだめだけど)



さて、大きくは、
映画の撮り方には二種類ある。
シングルキャメラか、マルチキャメラかだ。
シングルキャメラにとって、映画の単位はカットだ。
マルチキャメラにとって、映画の単位はシーンである。

最近のハリウッド映画にいい絵があんまりない気がするのは、
マルチキャメラで絵作りに執念がないからかも知れない。
一方日本の映画では、予算がなくて、ワンカットにも粘れない状況が続いている。


カット割はなんのためにあるのか。
芝居を見せるためだ。
ストーリーを見せるためだ。
絵を見せるためだ。

しかしそのやり方に、大きく違う二種類の方法、
シーン単位とカット単位があることを、基礎として知っておくべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 03:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして☆撮影の黒石信淵と申します。
アメリカで撮影を学び、日本の現場で助手経験を積み、今はDPとして活動し始めて10年目を迎える43歳のカメラマンです。

大岡さんの...カット割りにおけるシングルカメラとマルチカメラの違いを読んで...長年、言葉に出来なくて苦しんでいた心のわだかまりが氷解する想いでした。

現在...日本の現場に合った最適の撮影手法確立のために日夜、頭を悩ましておりますが...大岡さんのブログを読んで一歩前進できそうな気がしております。

ありがとうございます!
Posted by 黒石信淵 at 2015年11月25日 08:22
黒石様コメントありがとうございます。

結局全部予算ですよね。

外国の俳優は、芝居のバリエーションの多さを自慢します。
日本の俳優は、たった一つの分かりやすい個性を自慢します。
タレント芝居が多いのも、シングルキャメラのせいでしょう。色々やってみてよと言われても、戸惑うだけですね。
なので現場では、○○という台詞を△△という考え方で言ってみて、という解釈を変えてあげてコントロールするのが一番ですね。

僕が驚愕したのは朝ドラのやり方で、
スタジオでマルチなのですが、
収録はカメラ側でせず、カメラスルーの絵を
現場でスイッチングしながら収録するのです。
現場編集というか、中継映像というか。

ちなみに日本のCM現場では、シングルキャメラなのに、芝居のニュアンス違いのバリエーションを撮ったりします。
短い尺でニュアンスが微妙に変わる(俳句が一字変えると変わってしまうように)からです。
編集で繋いだ時にやべえ、を避けるためです。
たったひとつのOKを目指す日本の俳優からは、嫌われがちです。

これらのやり方を混ぜたのが、相米慎二のワンシーンワンカットです。
芝居がカットを割ると繋がらない、下手くそなアイドル芝居を自然に見せるために、
マルチキャメラの芝居現場にして雰囲気をつくり、
予算がないのでシングルでヒキで回したのです。
芝居は自然だけど絵は退屈という。



監督は、これらの事情を全部分かった上でカットを割り、現場で動くのが理想です。
でも自分のやり方しか知らない人も沢山いるでしょうね。

撮影部も俳優部も、編集に頭からケツまでいて、
どうやって繋がっていくか知ったほうがいいと思うんだよなあ。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年11月25日 10:59
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