2014年06月30日

親愛なる中島哲也様

ずっと僕らの先頭ランナーを走る姿を、
最初は尊敬の眼差しで、
次は羨望の眼差しで、
次はどこまでいけるのかという意地悪な見方で、
見守っていました。

お疲れさまでした。
ようやく空席ができました。椅子取りゲームに参戦します。
まずはその参加権を得る戦いをはじめます。
小さな狼煙を上げるので、温泉からでもご覧ください。



以下、「渇き。」論。
撮影も素晴らしい。照明もカラコレもいい。
役者も素晴らしい。芝居もフルスペックだ。
中島哲也は、僕は編集の人だとずっと思っている。
素晴らしい編集だ。
脚本やコンテがどうなってるか、是非とも研究に値する技術だ。
ダブルアクションやイマジナリラインの破壊とスクリプトとの整合性をどうとったかも知りたい。
(まさかと思うが下手な若手役者を救うやり方かもだ)
キャスティング、美術、衣装、特殊効果、
タイトルワーク、音楽、CG、どれも完璧だ。
あれほどのスタッフに恵まれたいと、心底思って叶わない。
デジタル撮影にも関わらず、あれほどのフィルム調の再現も研究に値する。
(予想は、ロー撮影段階でノーマルにおさめて撮っていない)
恐らく原作の解釈としても、
興味深いものになっているのかも知れない。
お子様世界になりがちな昨今のエンタメ界(笑)への、
政治的アンチテーゼとしても興味深い。
(多分、進撃降板のさい、お子様スイーツ映画会社と揉めて、
その鬱憤を晴らそうとしたのではないかと邪推すらするほどだ)

ただひとつ、オチの不味さをのぞいて。
ラストカットが勝負を決めた。


最近プロフィールに乗っけない黒歴史作、
ビューティフルサンデーよりも下回る出来のストーリーだ。
ナカテツ映画の終焉を、さきほど目撃してきた。

途中までは賛否両論の出来の、問題作、衝撃作になりえた。
なんだあのラスト。
長い時間見てきた観客を馬鹿にしてるのかと思ったよ。

ラストに主人公がフリーズで終わる映画として、
僕が思い出したのはロッキーだった。
まあ真逆の出来たるや。


監督を目指す諸君は、
反面教師として見ておくといい。
いかに各パートが頑張って、
素晴らしい絵作り、素晴らしい芝居をしても、
ストーリーが糞だと、糞映画になってしまうことを。
脚本こそが、映画の本質だということを。




ストーリーとは何か。
はじまりがあり、途中があり、終わりがあるものを言う。
それは今作のように時系列をコラージュしても、
明確な内容の流れがあればそれはストーリーである。
ストーリーが終わったとき、
我々がそこに何らかの意味を見いだせるものを、
文学という。

ナカテツ映画は、ついに文学になり得なかった。

映画的なピークは、下妻物語かなあ。
CMのピークは、キムタクのJRAと、フジテレビがいるよ、と、
オリンピックがなければ平凡な夏でした、かな。
これらは、非常に優れた文学だった。
posted by おおおかとしひこ at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック