「渇き。」のカット割の特徴は、
三年前と現在の同時進行という大きな構造の中で、
三年前の過去は、手持ちとマルチキャメラの多用、
現在は、フィックスとシングルキャメラ、
と、使い分けていることにある。
(以下ネタバレの可能性あり)
例えば三年前の過去での、
屋上のシーンなどだ。
ヒロイン加奈子を、二台のマルチキャメラで撮っている。
(エンドクレジットでBカメラを確認。Cがなかったので二台と思われる)
髪のなびきの奇跡的な美しさ(これは偶然でしか得られない)、
加奈子の一瞬見せる表情を切り取り、
それらを、イマジナリラインごえのルールを破ってまで、
会話の中に散りばめていく。
インサートのリアクション、などという意味のある構成的編集ではなく、
この一瞬が気持ちいいから、という感覚的編集だ。
音楽のPVは、多くがこのような編集をする。
音楽に合わせてカットを変えることが多いが、
その基準は、ストーリーではなく、
感覚に沿うことで繋ぐ。
要するに、こうであるべき、ではなく、これが気持ちよかったから、
という繋ぎだ。
当然、意味は崩壊する。感覚だけがのこる。
この映画の過去のストーリーが物足りないのはこのせいだ。
もしかしたら、だが、加奈子役の小松奈菜は、
芝居が下手なのではないだろうか。
造形的にはモデルでカワイイから、
その偶然撮れたベストショットを、
うまいことPV風に繋いでみたのではないか。
あの年の女の子で、芝居が出来る子は滅多にいない。
体型を見るに相当モデル体型だから、
勉強が出来るとか読書を好む、聡明な子でもないだろう。
(聡明な子は、体に対し確実に頭がデカイ)
後半の芝居を見ても分かるが、全部一本調子だ。
ニュアンスを変えるとか、メリハリをつけることを知らないか出来ないかのどっちかだ。
この撮影編集方針は、加奈子のシーンでは統一的に行われている。
ドコモDビデオの小松奈菜のCMも同じく中島監督だが、
この時に開発したやり方を、応用している気がする。
ちなみにこのやり方は、僕が「動物を撮る方法」と呼ぶものだ。
動物は二度と同じ表情をすることはないし、
どう動くかも予測出来ない。
芝居とは、同じことを同じクオリティで何回も出来ることだが、
安定して打率を稼げない素人同然だが、
造形的にカワイイ女優に芝居をやらせて、
雰囲気でまとめるには最良の方法かもしれない。
問題は、話が詰まらなくて、その凝った手法ですら、
そこまで引き付ける力にならなかったことだ。
逆にこのカット割は、
刺激は高いが、話を進める力はない。
プロットや状況の変化を描いているわけではなく、
ただ美しいものの美しい瞬間を切り替えていくだけだからだ。
つまりは、話のつまらなさを、
カット割で誤魔化しているに過ぎないのだ。
このカット割は、数分間は持つ。
だってオープニングはかっこよかったし。
数分間は持つが、それ以上はもたない。
2014年06月30日
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