主人公藤島元刑事を追う現在の時間軸は、
過去と対比的に、フィックスでじっくり撮る、
オーソドックスなカット割になっている。
現実の確固たるもの(のはずのもの)が、
過去の加奈子に侵食されるかのように、
加奈子側のカット割へ影響される。
具体的にはカッティングが早くなり、手持ちが増える。
(以下ネタバレ)
これは藤島が徐々に狂っていっていくことの、
カット割的な暗示だ。
どこから狂っていたのか、最初からすら狂っていたのか、
と不安にさせるために、
巧妙に編集は行われている。
オープニング演出から続く、
フラッシュフォワードとフラッシュバックの、
一見意味ありげな短いカッティングだ。
フラッシュフォワードの多用が印象的だった。
過去をインサートするフラッシュバックの逆で、
映画の後半に出てくる場面を、
前もって謎めきのように一瞬ずつ挿入していくのである。
加奈子が藤島に犯されそうになったとき、
耳元で「愛してる」とささやく唇の横顔は、
何度も挿入されるフラッシュフォワードカットだ。
時系列的には現在軸より過去なのだが、
真の意味が明かされる後半部への、実質伏線になっている。
(意味が明かされたあとも同様に挿入され、
それは同じカットなのにフラッシュバックカットとなる)
オープニング演出での、
フラッシュバックとフラッシュフォワードを随所に散りばめ、
クリスマスの夜を描きつつ大事件を匂わせ、
同時にコンビニ殺人事件へと焦点を移行させる中、
実は周辺情報を細かく散りばめている
(例えばオダジョーの家族の一見幸福なカットなども挿入されているらしい)
など、芸が細かい。
そしてそれが独特の語り口を持つ映像スタイルと思わせておいての、
藤島はどこから狂っていたのか、
あの映像もあの映像も、フラッシュフォワードもフラッシュバックも、
藤島の幻想ではないか、と思わせる所が、
カッティングのスタイル=狂っている、
という「手法と内容の一致」になっている美しさ。
この革命的なカッティング演出に比して、
ストーリーがお粗末なのが惜しい。
それぞれの登場人物の行動の理由が、
部分的に未解明だったり、変だったりする、
未完成の感じがダメだ。
完璧に分かるストーリーを、この革命的なカッティング演出でやっていれば、
ナカテツはまだ神でいられたことだろう。
登場人物が一見露悪的に見えながら、
わりと中二病なのも気になった。
中二病同士の殺し合いなんて、単なるラノベではないか。
実写ならではの深みがなく、マンガっぽい人間像だった。
リアルな「狂い」に向き合っての、
あの革命的なカッティングなら完璧だったろう。
(例えばヤクザはテンプレすぎやしないか。
例えば妻夫木の笑うキャラもテンプレすぎやしないか。
笑うを一切崩さないのかと思っていたら、
死ぬ間際に笑わなくなるし。狂気の貫き方が中途半端だ)
役所広司を追うカメラは、
殆どがフィックスでオーソドックスだ。
だから感情移入は役所広司に起こる。
唯一彼の感情と行動だけが、映画のなかで一貫性を保つものである。
しかしその全体が、キムギドクの「オールドボーイ」に似すぎている。
ラストシーンの雪原は、意識しすぎだと思う。
ちなみにラスト(雪原二日目)は、吹雪の音はするものの、
実際に風は吹かず雪も降っていないことに注意されたい。
吹雪の音が幻覚なのか、吹雪のさなかですよ、という説明なのか、
下手すぎて伝わらないところだ。
この革命的なカッティングは、
普通のシナリオの、過去と現在を同時進行する構成のものを書き、
そのように撮影した(時にマルチキャメラを使って)のち、
編集段階で早いインサートのシャッフルをやったと考えられる。
元々構想にはあっただろうが、
編集室で組み上げた部分があるだろう。
役所広司の車の凹みが時系列で整合性が取れていないカットがあること、
中谷美紀の車種が、さらう前と後で変わっていることなどが、
撮影時に想定されていた使い方とは、
別の使い方を編集時に作ったことを暗示する。
「渇き。」のカット割は、
これまで議論したように、革命的なものである。
しかしそれは、内容あってのカット割なのだ。
内容と技術の解離がはげしい。
それがこの映画を凡作にしている理由である。
2014年07月01日
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