2014年07月15日

物語とは、状況の変化である

何度か書いているが、
とある状態が、何か(偶然、誰かの意志、行動)によって、
別の状態へ移行することが物語である。

その最も極端な状態を考える。
ネガティブな状態(-100)からポジティブな状態(+100)へ
変化するパターンだ。
「死んだ人が生き返る」みたいなパターンだ。
漫画ではよくあるが、実写にはない。
それは何故だろう。リアリティーだ。
変化に、リアリティーが必要なのだ。


落差200の物語が最強である。
しかしそれをリアリティーが阻む。
そんなわけないだろ、という思いが。
だから、物語は独自の工夫をする。

「事故で死んだ妻の為に、タイムマシンをつくる男」(タイムマシン)
は、タイムマシンという大技を使う。
「死ぬが、宇宙人の力で生き返る」のは、E.Tだ。
(E.Tは、だからマンガのような、おとぎ話のような、と言われる)

ハッピーエンドは、最大+200の落差をかけ上がるが、
逆に+100から-100へ、-200の落差を転落する、
バッドエンドの物語もある。
前者を喜劇、後者を悲劇とよび、
映画の出現以前は、物語世界で-200を経験することはマイナーではなかった。
むしろギリシア以来、劇の華であった。

映画でハッピーエンドが好まれるのは、
マンガや演劇に比べた、リアリティーのせいだと思う。
例えば「レ・ミゼラブル」は、ストレート芝居なら、
単なるバッドエンドの悲劇だ。
小説の邦題を「ああ無情」という通り、転落の-200を楽しむ物語だ。

これを映画版では、ミュージカルという実に映画的手法で、
その悲劇に意味があったように表現する。
いわば全滅エンドの-200を、最後の歌で+200へと昇華するのだ。
そこが素晴らしかった。
(全滅エンドと言えば僕の世代では「伝説巨神イデオン」だが、
発動篇では、宗教?的表現で単なるバッドエンドを昇華しようとしていた)
こんな工夫が、リアリティーを持つ映画の工夫だと思う。

逆に、本当にストレートに転落を描いた、
最強のバッドエンド映画「レクイエム・フォー・ドリーム」は必見である。
バッドエンドをどうこう言うなら、これを見てからだと僕は思う。
この胸糞悪さは、リアリティーならではだ。

-200は、(映画では)美化によって+200に昇華させると見れる、
と言ってもよいかも知れない。
(死ぬオチで言えば「ノッキング・オン・ザ・ヘヴンズ・ドア」(オリジナルドイツ版)は、
海と酒と3Pという美化で昇華している)


また、勧善懲悪は、主人公の+200を描きながら、
悪役の-200を描いていることに注目したい。
悪役は主人公のシャドウと呼ばれるのは、このような構造があるからだ。
我々観客は、主人公の+200の物語を楽しみながら、
悪役の-200の悲劇も同時に楽しんでいる。

更に悲劇に焦点を当てたものに、「刑事コロンボ」がある。
犯人が主役、という斬新なその物語群は、
犯人の転落ぶりを楽しむのだ。
勧善懲悪を理由に。
(このような、悪役を主役とした物語で思い出すのが、
「太陽がいっぱい」だ。
勧善懲悪を理由に、観客は劇場を出て、悲劇の楽しみを反芻出来る)




本題に入る。
-100の状況を-50や-10に「手加減」すると、
200のスペックの物語が、150や110になる。
+100を+50や+10にしても同じくだ。

出来るだけ状況を悪く、最悪に、
出来るだけ勝利を爽快に、最高に、
描くべきなのだ。

そこにリアリティーがあるように、設定やストーリーを設計するのである。

「ロッキー」は+200型の大逆転映画だが、
+100の結末を、「試合に勝ち世界チャンピオンになる」という
リアリティー無視の終わりではなく、
「最後まで立ち己を証明する(負けでも)」
に上手くすり替えているところが秀逸である。

そうなるように、ミッドポイント
(自分のインタビュー映像で、エイドリアン見てるか?とバカみたいに言い、
自分が世間にどう見られているかを自覚し、冷水を浴びせられた)
で仕込みがあり、それを第二ターニングポイント
(試合会場に下見に行ったらトランクスの色を間違えられていて、
誰も俺を見ていないとエイドリアンに弱音を吐き、
俺がチンピラじゃないことを証明する、と言う)
で決定づけている。




最近の日本のCMが詰まらないのは、
-100を描かないからだ。
クレームが怖いのか、ネガティブな状況をなるべく見せまいとする。

話題の東京ガスのオンエア中止のCM
(就職活動の失敗を、母の手料理で回復し次へ向かう)を見た。
-100を+100に反転するに至らず、+30ぐらいで終わってる印象だ。
トータルで-70の印象が残り、失敗作だと思われる。

ネガティブチェックという言葉がCM業界にある。
クレームが来そうな状況を予め想定し、
それを取り除くことを言う。
東京ガスのせいで、-100を0にせよ、という流れがよりきつくなっている。

0から100で、ようやく+100の物語だ。
+200の物語には勝てない。だから日本のCMは詰まらないのだ。
比較で、タイの泣けるCMを見るといいだろう。
(「泣けるCM タイ」で検索すれば山ほどある)
かの国ではネガティブチェックなどはない。
人生の悲劇をどう喜びに変えるか、という、
物語のスタンダードなやり方で頑張っている。
-100を描き、+100を描き、
その間を、リアリティーと物語的工夫(演出も含む)でブリッジしている。

人は死ぬ。欠点はある。貧困はある。辛い現実はある。
-100に蓋をしがちな日本のCMは、これからもせいぜい100どまりだろう。
posted by おおおかとしひこ at 12:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。いつもブログをメモを取りながら拝見しております。
私事ながら、自分はラノベ系の作品を投稿していて、「編集さんはついているものの、デビューはまだできない」という状態でs。
お話作りって何だ? もっと面白くするためには何が足りないんだ?と悩んでいろいろ脚本について勉強しようと思い、こちらのブログにたどり着きました。
情婦や12人の怒れる男や水の中のナイフなど、古今東西の面白い映画の「なぜ面白いのか」という理由がスムーズに理解できてとても役に立っています(このブログに出た作品は、たとえ駄作として紹介されたものでも見るようにしています。駄作を見ると「なぜつまらないか」もぼんやりとですがわかるようになりました)
できればこのブログの書籍化を強く希望しています。きっと創作をする人の助けになると思います。

どうしても気になることが1つだけあるので、よかったらお答えをいただきたいのですが(だめだったらいいです)となりのトトロというジブリ作品があります。
いつみてもわくわくする作品なのですが、脚本に集中して見てみたところ、登場人物が作中で大きく成長・変化したように思えません。
子供の夏の大冒険ではあるし、夢のある世界は大人も夢中になるし、
前半、田舎への引っ越し〜トトロとの出会い、なのと
後半、サツキとメイの喧嘩〜猫バスの冒険 なのはわかるのですが
サツキもメイも最初から良い子ですし、特に大きな変化がないというか、何か解決したか?そもそも物語冒頭で解決すべき問題はあったか?というとそうでもないような…でも、映画として見たとき面白いのです。ラストは「わーい、よかったね、ああおもしろかった」となるのです。

ラピュタやもののけ姫と違い、ストーリーを追うタイプでなく背景や子供時代のノスタルジックな感じ、童話風の世界観、トトロのしぐさなどを見て楽しむ感じなのかな?と思ったのですが
ポニョよりはストーリーがきちんとある印象があり(ポニョは途中で「えっなんでそうなるの」と声が出てしまって)、トトロ、感動はするんですが、自分がどこに感動してるのか不明で……異物論と照らし合わせてみて、少女二人が田舎(トトロ含む)という異物に会う話なのかなあ、とも思ったのですが、どうも釈然としなくて。

突然すみません。脚本論は本当に助かっていますので、これからの更新を楽しみにしております。ありがとうございました。
Posted by FF at 2014年07月15日 14:32
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