FFさんの質問に答えてみます。
(書籍化は、とても面白いことだと思いますが、
編集者さんや出版社さんがいないと、どんな原稿があっても世には出ません。
残念ながら僕にはそのようなつながりがないもので、こうしてネットでやっております。
どなたか紹介してくださいな)
トトロをきちんと批評したいのですが、
今記憶だけのなかなので、宮崎論ごとやってみます。
宮崎駿の作品群には、明確に映画的脚本になっているものと、
なっていないものがあります。
僕的な宮崎作品のベストは、
1「ルパン三世・カリオストロの城」(生涯のベストでもあります)
2「風の谷のナウシカ」
3「天空の城ラピュタ」(2、3は迷いどころだけど、カタルシスの差で)
4「未来少年コナン」(TVシリーズ)
5「魔女の宅急便」
6「千と千尋の神隠し」
あたりかな。
これらはすべて、「問題と解決」の物語構造を持ちます。
だから、敬愛してやまない、永遠に追いつけないかも知れない作品群です。
一方、「となりのトトロ」をはじめ、
「崖の上のポニョ」「ハウルの動く城」「もののけ姫」「風立ちぬ」「紅の豚」には、
明快な、「問題とその解決」の構造がありません。
「もののけ」にはアシタカの呪いという問題が一幕で提示されるものの、
その後の展開はサンにゆだねられ、主役が交代しているというねじれた構造で、
中途半端に映画的な文法になっているのでタチが悪い。
(僕は宮崎駿を、博報堂時代と電通時代に大きくわけて考えています。
ナウシカから豚までが博報堂、もののけ以後が電通。電通がかかわってから、
宮崎駿は、映画的物語構造を持つ作品を、千と千尋をのぞいて一本も書いていません)
それは、「アニメーション」ということが大きくかかわると思います。
アニメーションは、「動かないものを動かす」ことに全力をつくします。
宮崎駿は、物語を語ることではなく、
「生命のないものに、生命を与えること(animatedというアニメ本来の意味)」
に一番のモチベーションがあると考えられます。
彼のインタビューや発言を見る限り、
彼はそれぞれの動き、風、間、リアル以上のリアルな動きに一番関心があり、
コンテやレイアウトを重視するという考え方も含めて、
彼の魂は、「動きを作る」ことそのものにあると思います。
それが、ストーリーとかみ合う瞬間が映画的だと思いますが、
宮崎駿(特に後期、電通時代以後)は、映画的かどうかに、
あまり関心がないように思えます。
たとえば、僕がルパンの大好きなシーンをあげてみます。
ミッドポイントの、塔の上でルパンが銃に撃たれ、人形のように転がっていくところを、
クラリスが身を投げ出して救う名シーンがあります。
あるいは、「今はこれが精一杯」のあと、軍団に見つかり、
床に穴が開き微動だにせず地下へ落とされる名シーンがあります。
あるいは、その前に塔に侵入しようとして、
ワイヤーのついてるロケットを屋根から転がしてしまい、
走って走って走って飛んで、というコミカルな名シーンがあります。
冒頭のクラリスを救うチェイスの名シーンでは、崖まで走り出します。
これらのすばらしいアニメーション的な「動き」は、
すべて「ストーリー上のアクション」として表現されています。
同様に、ナウシカでは、子供の王蟲を吊るして大海哨を起こそうとする者たちに、
「メーヴェで空中ポッドにたどり着き、そこから大の字で飛び移る」という名シーンは、
ストーリー上のアクションと、アニメーション的動きの、見事なコラボレーションです。
ラピュタでも、ミッドポイントの空中救出シーンが、もっとも劇的なのは、
アニメーションのすばらしい動きと、ストーリーの動きが合致しているからです。
(逆に、クライマックスのバルスのアニメーションが弱いのが、ナウシカより下の評価かな)
一方、トトロや猫バスの面白いうごきや、
一気に芽が出て空を飛んだり、モフモフしたりする面白さや愉快さは、
ストーリーの動きとは、関係ないときに起こります。
勿論、子供たちの抱える漠然とした不安を、アニメーションの愉快さで解消しようという、
狙いは(無意識的に、夏だし)あると思われます。
病気がちな母、見知らぬ土地という具体的な不安と、
成長への不安という形のないものです。
余談ですが、トトロの都市伝説「実はメイとサツキは死んでいる」は有名です。
なぜこれがあるかというと、トトロには「不安」が描かれているからです。
問題が「不安」なのに、その解決が明確に描かれていない、観客側のもやもやが、
「実は死んでいた」とうメタ物語をつくることで、合理的に納得しようとしたと考えられます。
僕は、幽霊のほとんどは、「説明のつかない不安を解決する装置
(これは不安ではなく、幽霊であると理解して安心する)」であると考えます。
物語とは、理屈や答えをつける装置でもあるからです。
トトロに「問題と解決」が描かれていないが、なんとなく楽しかった、
というもやもやは、FFさんだけではありません。
多分見た人全員が漠然と思うことです。
その正体のなさが、「幽霊話」になったのだと思われます。
宮崎駿という作家は、物語には多分興味がなく、
「動かすこと」に最大の興味がある人だと思います。
トトロに物語(問題と解決)がなく、ナウシカにあるのは、
多分「偶然」にすぎないのでは、と考えます。
カリオストロ、ナウシカ、ラピュタでは、脚本を書いてから、コンテを書いていました。
が、もののけ以降、脚本を書かず、コンテを直接書く制作方式にしています。
それが、ストーリー構造を俯瞰して考えず、
目の前にある動きだけを考えてしまう制作方法になってしまうのは、
素人でもわかるでしょう。
ポニョの波の動きは、アニメーションとしては素晴らしいけど、物語上の役割はありません。
動く城は、アニメーションとしては素晴らしいけど、物語上の役割はありません。
デイダラボッチや複葉機や、まっくろくろすけの、
動きのアニメーション的素晴らしさは、物語上の動きとなんの一致も見せていません。
(「風立ちぬ」の関東大震災はすごくよかった)
ハウルが戦闘機と戦う予告編で見たワンカットに、ぼくはすごくわくわくしました。
それがどんなストーリーなのか知りたくて映画を見たら、
さっぱり関係ないインサートで、スーパーがっかりだったことを覚えています。
「動きが映画であり、アクションのピークが物語のピークであるべきだ」
という僕の主張は、このような宮崎の分析によっても得られているのです。
トトロに話を戻すと、
子供の不安は、子供自身で解決する力をもちません。(だから子供なんだけど)
だから、その解決は「親に無事会うこと」で達成されます。
一応話がオチているような気になるのはそのためです。
「自力解決による成長や変化」ではなく、親にあえて安心した、が落ちなのです。
(それで、オチてるけどオチてない、というもやもやが都市伝説の誕生原因だと思います)
物語論でいう、「デウス・エクス・マキナ」をご存知でしょうか。
(マトリックスのラスボスで再度スポットの当たった名前ですね)
自力解決でなく、絶対的な他力による解決落ちになるとき、
そのよそから来た他力をそう呼んで批判します。
ひどいものになると、全能の神が解決したり、作者が出てきたりします。
「ドラえもんのび太の恐竜」における、タイムパトロールがそれです。
昔の西部劇では、騎兵隊がやってきていろいろ片付けるというパターンが散見されました。
アメリカ映画でも、ラストに警察のパトカーに囲まれて終わる、
というパターンが多いですが、「警察が来る前に、関係者が自力で解決する」ことで、
デウス・エクス・マキナの侵入を防いでいますね。
子供は自力解決力を持たないため、母親の胸に飛び込めば問題終了なのです。
ここでのデウス・エクス・マキナは、母のおっぱいに象徴されます。
(突然、僕の好きな漫画「じみへん」を出します。
デウス・エクス・マキナをパロディ化した秀逸な話があります。
地下を掘って、ほふく前進で進む部隊がいます。
狭い穴のため、一列でほふく前進というキツイ状況。
と、前方に穴が開き、向こうからも穴を掘ってきた部隊がいて、
地中で同じ部隊が鉢合わせするという事態になります。
お前が下がれ、無理だ一本道だ、お前が下がれ、無理だこっちはうしろに100人いる、こっちもだ、
という閉塞状況になります。
ここでデウス・エクス・マキナ、四畳半で漫画を描く作者が「もう耐えられない!」と登場、
「隊長、ここに横穴が!」「よし掘ってみろ!」と出た先が「女湯だあ!」と解決する、
というすさまじいまでの他力解決ぶりのオチの話。
このころの中崎タツヤは切れまくっていた)
トトロは、問題を自力ではなく他力による解決をしている(どころか解消はしていない)。
母のおっぱいをデウス・エクス・マキナにしてカタルシスを確保。
それどころか、「困った人には親切にしてくれる」といういい田舎の構造
(他力による解決)を借りている。
(もともと日本人は自然という他力に生かされている、と思う民族)
映画自体の魅力は、猫バスやトトロの面白さや、
まっくろくろすけやらの「動きの面白さ」で担保されている。
(一応、不安の擬人化がそれらの妖怪である、という構造はある)
あと、エンディングの歌はいいよね。これでごまかされてる。
というところでしょうか。
あくまで映画脚本論的に見たところですが、
(ラノベとはまた違うジャンルになってしまいますが。
ラノベで、映画的な問題と解決と成長って、必ずしもいるのか?
という別の問題はありそうだけど)
答えになってますでしょうか。
2014年07月16日
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先日のトトロ地上波放送を見て「あれ? トトロの山場ってどこ?」と思い、突然質問してしまったのですが、とても丁寧なご返答ありがとうございます。いろいろと疑問だったところが解決しました。
やっぱりトトロは問題解決構造を持っていないお話なんですね…もし、種が一晩で大樹になったりトトロと一緒に空を飛ぶシーンが物語のテーマ(サツキやメイの成長)に深くかかわっていたら、また別の意味を持つ物語になったのかな? と思いました。
(ところで、トトロをもしハリウッドで作ったら「サツキとメイは両親の不仲や田舎への不信やその他心の問題を抱えていて、それがトトロとの触れ合いを経て内的問題を解決し、冒険し、大人の階段を一歩登る」的な話になりそうだなあ、と思いました。書いて思ったのですがこれでは千と千尋と同じですね……)
ただ、トトロは日本で作られたからこそ、視聴者に「夏の子供時代、古き良き日本の美しさ(トトロの可愛さ)」を強烈に思い出させる素晴らしい作品になったと思います。大好きな作品ではあるのですがずっと謎だったので、監督に答えていただけて大変助かりました、ありがとうございました。
私事なのですが、脚本でなく小説の場合、40〜60ページ目で詰まる、というのがよくありました。
劇的に面白い(と自分では思っている)キャッチ-な出だしを書いて、ドタバタし、さあひと段落、となったときに「次に主人公たちがどこへ行っていいのかわからなくなり、止まる」現象が私には多々ありまして、セイブザキャットや13フェイズの映画的理論構造の勉強をいくつかしてようやく最近は止まらずに(冒頭から何を仕掛けておくべきかがわかって)物語を作れるようになってきました。第一ターニングポイントが本当にダメだったんです、創作し始めの時はここに何かを置かないといけないという意識すらしてませんでした。
ですので映画の脚本を勉強することは私にとってはすごく役に立つことでした。それまではページ数の分配もクライマックスの盛り上げもわかっていない状態だったので。
個人的に監督の書いた「同人SS的世界」には納得しました。ストーリーでなく自分が素敵だと思うシーンばかり書いていて、それを並べるだけなので、話が全然進まないのです。
ラノベ?と思われたかもしれませんが、お話作りという根っこだと本当に勉強になることばかりです。あと、ご存知かもしれませんが乙一さんという作家は、映画脚本の時間分配を参考にして起承転結のページ数を完全に四等分し、作品をすべて書いてると、インタビューなどでたびたび書いています。なので、小説の書き手の中にも、脚本の作り方を頭に入れている人は多いと思います。
長くなりました、ごめんなさい。
ありがとうございました、またブログ拝見させていただきます。
個人的には、小説には映画に出来ないことをやってほしいと思うので、
映画の方法論を使わなくてもいいのに、と思ってしまいますが。
(とくに時間配分なんて、リアルタイムで進まない小説には、映画ほど厳密ではないと思います)
ラノベは読まないのでわかりませんが、参考になるなら幸いです。
「お話づくり」の基礎が、全ての物語形式で共通かどうかは、わかりかねるところですね。
トトロは、映画形式というより、神話っぽい物語
(後半は洞窟の宝を得る話と、洞窟から脱出して生まれ変わるってやつ。正確に何と呼ばれてるかは不明)
に近いのではないかと思います。
ストーリーやドラマがきちんとあり、テーマもしっかりしている作品だと思うのですが……
劇場で一度見たきりで、二度以上見てないので、
正直記憶にないので…
僕はカリオストロやナウシカやラピュタのような、
冒険ものがすきですね。
実写でできそうにないものをアニメに求めてしまうというか。
「耳をすませば」は実写でできそうなものをアニメでやる、
という流れの転換点の時代の作品だと思いますが、
わざわざ二度見しようとは思わないのはなんでだろ。
「宮崎はもっとやる男だ」と当時は思ってたかもなあ。
ちなみにトトロも「もっとやれるはず」と思ってます。