2014年07月16日

完結とは、成長のこと

終わらない話が、世の中には沢山ある。
漫画の連載などがそうだ。
これらの暗黙のルールは、
「主人公を成長させてはいけない」だ。
何故なら、成長したら話が終わってしまうからだ。

逆に言うと、「終わり」とは、主人公が成長したこと、
なのだ。


目の前に起こっている物理的事件の解決が、
外的問題である。
物語というのは、この外的問題を一見扱っているように見せかけ、
実は内的問題を扱う。

(少年漫画はこの構造を殆ど持たない。
「ドラゴンボール」で次々にやってくる敵は、悟空の内的問題と関係がない。
サイヤ人でようやく出自と関係するまで、外的問題の解決のみに専念している)

トラウマや弱点や欠点という物理的実体を持たないものが、
物理的実体を持つ外的問題のクリアによって、
解消して再構築される。
これを成長という。

映画のような、二時間程度で完結する物語では、
外的問題と内的問題のバランスを、ざっくり5050にする。
(勿論内面の問題に焦点を当てた深い作品もあるし、
外的問題しかクリアしないバカアクション映画もある)

が、連載漫画などでは、
主人公に内的問題(解決されることを前提とした前ふり)が、
きちんと設定されないことが多い。
あるいは、設定されるとしても、具体的解決がさくっと行かない、
長期的な問題(コンプレックスや凡庸であることなど)になる。
即解決しない問題にすることで、
「内的問題は持つが、長期的な描写を前提」として話を引っ張る為だ。

長期連載は、話を解決することではなく、続けることが目的である。
美しく鮮やかな問題解決をつくり、名作の一本をめざす映画と、
生存戦略が違うのだ。

映画が、登場人物を毎度毎度「使い捨て」扱いするとしたら、
長期連載は、なるべく長く使える登場人物を出すものである。
(漫画はキャラだ、と短いキャッチフレーズで呼ばれる)


この考え方は映画にも時に応用される。
シリーズをつくるときだ。

が、ということは、一作目で、主人公が成長しない、
という問題が逆に起こるのだ。
成長しすぎても、シリーズ二作目以降、
悟りを開いた神になってしまっている愚をおかしがちだ。
(マトリックスでは、ネオが成長しすぎて神になってしまっている為、
2以降で感情移入が全く出来ない)

ある程度成長して、1を完結させ、
成長しすぎず、2以降を長期化させる、
という「成長度合いのコントロール」が、必要なのである。
内的問題とその解消を、段階的に行うか、
別の内的問題を掘り起こすしかない。

あなたは長期シリーズをやることがあるなら、
このことを覚えておくとよいだろう。


クレラップのシリーズを10年近くやったが、
一作目で成長させてしまった(商品の使い方をマスターした)。
だから二作目以降は、「商品が使いやすい」というアピールポイントを、
体感する側でなく、教える側になってしまった。
だから、使いやすいことを知らない人(世間)が、
感情移入出来る存在ではなくなった。
記憶喪失にならない限り、商品の使いやすさに感動する側にはならない。
実はその問題をずっと抱えていた。
まあ、色々誤魔化して15作ぐらいは持たせたけれど。


逆に言うと、きちんとした完結とは、
物理的事件の、外的問題の解決だけでは駄目だ。
内的問題が、外的問題の解決によって、昇華されたかが、
映画的な完結なのだ。


トトロ論にちょっと戻るならば、
子供の内的問題の解決は、物理的成長か、
大人になるまで解決を待たなければならない。
つまり、子供を主人公にする作品は、
かならず「大人になること」(その度合いは色々あれ)に、
必然的になってしまうのだ。
トトロではそれは一切描かれていない。
妖怪との出会いが彼女たちに何かをもたらせた訳ではなく、
不安がいっとき彼らと遊ぶことで「時間潰しができた」というお話だからだ。
(その軽さゆえ、リピートされている可能性すらある)

「いけちゃんとぼく」では、だからヨシオの成長をどう描くかを主軸にした。
(原作では、いつの間にか成長している。どう読み込んでも、
自転車を引きずるエピソードで、突然の成長が既に終わっている。
漫画の長期連載の必須条件、「キャラが変わらないこと」が、
このエピソードから崩れる。
それまで平衡を保ってきた、キャラ不変のバランスの崩れから、一気に終盤へ突入する)

「地下鉄のザジ」が、あれだけハチャメチャな、
映画になっていない90分を描きながらラストの一言で映画になるのは、
その成長の描き方が、オリジナルで文学的だからだ。


最後まで書けないという病を抱えている人は、沢山いる。
それは、外的問題の解決は考えていても、
主人公の成長を、具体的にどう描くかを考えていないからかも知れない。

簡単なブックエンドテクニックを。
冒頭のシーンで、主人公がなにかを出来ないことを描く。
冒険をさせる。
ラストのシーンで、それがひとりでに出来るようになっているのを描く。

そのことについて、本編中で一切言及がないにも関わらず、
ラストに納得がいき、感動するのなら、
本編の冒険は、上手く内的問題と外的問題の解消を描けていると言える。


なかなか計画的に成長させることは難しい。
困難に直面させ、それを無理矢理にでも克服するという、
「強いられる」というパターンが一番やりやすい。

ピーマン嫌いの人が、大魔王に殺されるかピーマンを食うか選べ!
と強いられる、という極端な場面で理解するといいだろう。
ピーマンや大魔王を、もう少し現実的なものに置き換えるとよい。

内的困難(性格のアンバランス)では絵にならないから、
外的困難(ピーマン)で描くのが、映画的な考え方だ。
(小説だと内面描写が出来るから、内的問題だけを純粋に書くことが可能だ)
posted by おおおかとしひこ at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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