終わらない話が、世の中には沢山ある。
漫画の連載などがそうだ。
これらの暗黙のルールは、
「主人公を成長させてはいけない」だ。
何故なら、成長したら話が終わってしまうからだ。
逆に言うと、「終わり」とは、主人公が成長したこと、
なのだ。
目の前に起こっている物理的事件の解決が、
外的問題である。
物語というのは、この外的問題を一見扱っているように見せかけ、
実は内的問題を扱う。
(少年漫画はこの構造を殆ど持たない。
「ドラゴンボール」で次々にやってくる敵は、悟空の内的問題と関係がない。
サイヤ人でようやく出自と関係するまで、外的問題の解決のみに専念している)
トラウマや弱点や欠点という物理的実体を持たないものが、
物理的実体を持つ外的問題のクリアによって、
解消して再構築される。
これを成長という。
映画のような、二時間程度で完結する物語では、
外的問題と内的問題のバランスを、ざっくり5050にする。
(勿論内面の問題に焦点を当てた深い作品もあるし、
外的問題しかクリアしないバカアクション映画もある)
が、連載漫画などでは、
主人公に内的問題(解決されることを前提とした前ふり)が、
きちんと設定されないことが多い。
あるいは、設定されるとしても、具体的解決がさくっと行かない、
長期的な問題(コンプレックスや凡庸であることなど)になる。
即解決しない問題にすることで、
「内的問題は持つが、長期的な描写を前提」として話を引っ張る為だ。
長期連載は、話を解決することではなく、続けることが目的である。
美しく鮮やかな問題解決をつくり、名作の一本をめざす映画と、
生存戦略が違うのだ。
映画が、登場人物を毎度毎度「使い捨て」扱いするとしたら、
長期連載は、なるべく長く使える登場人物を出すものである。
(漫画はキャラだ、と短いキャッチフレーズで呼ばれる)
この考え方は映画にも時に応用される。
シリーズをつくるときだ。
が、ということは、一作目で、主人公が成長しない、
という問題が逆に起こるのだ。
成長しすぎても、シリーズ二作目以降、
悟りを開いた神になってしまっている愚をおかしがちだ。
(マトリックスでは、ネオが成長しすぎて神になってしまっている為、
2以降で感情移入が全く出来ない)
ある程度成長して、1を完結させ、
成長しすぎず、2以降を長期化させる、
という「成長度合いのコントロール」が、必要なのである。
内的問題とその解消を、段階的に行うか、
別の内的問題を掘り起こすしかない。
あなたは長期シリーズをやることがあるなら、
このことを覚えておくとよいだろう。
クレラップのシリーズを10年近くやったが、
一作目で成長させてしまった(商品の使い方をマスターした)。
だから二作目以降は、「商品が使いやすい」というアピールポイントを、
体感する側でなく、教える側になってしまった。
だから、使いやすいことを知らない人(世間)が、
感情移入出来る存在ではなくなった。
記憶喪失にならない限り、商品の使いやすさに感動する側にはならない。
実はその問題をずっと抱えていた。
まあ、色々誤魔化して15作ぐらいは持たせたけれど。
逆に言うと、きちんとした完結とは、
物理的事件の、外的問題の解決だけでは駄目だ。
内的問題が、外的問題の解決によって、昇華されたかが、
映画的な完結なのだ。
トトロ論にちょっと戻るならば、
子供の内的問題の解決は、物理的成長か、
大人になるまで解決を待たなければならない。
つまり、子供を主人公にする作品は、
かならず「大人になること」(その度合いは色々あれ)に、
必然的になってしまうのだ。
トトロではそれは一切描かれていない。
妖怪との出会いが彼女たちに何かをもたらせた訳ではなく、
不安がいっとき彼らと遊ぶことで「時間潰しができた」というお話だからだ。
(その軽さゆえ、リピートされている可能性すらある)
「いけちゃんとぼく」では、だからヨシオの成長をどう描くかを主軸にした。
(原作では、いつの間にか成長している。どう読み込んでも、
自転車を引きずるエピソードで、突然の成長が既に終わっている。
漫画の長期連載の必須条件、「キャラが変わらないこと」が、
このエピソードから崩れる。
それまで平衡を保ってきた、キャラ不変のバランスの崩れから、一気に終盤へ突入する)
「地下鉄のザジ」が、あれだけハチャメチャな、
映画になっていない90分を描きながらラストの一言で映画になるのは、
その成長の描き方が、オリジナルで文学的だからだ。
最後まで書けないという病を抱えている人は、沢山いる。
それは、外的問題の解決は考えていても、
主人公の成長を、具体的にどう描くかを考えていないからかも知れない。
簡単なブックエンドテクニックを。
冒頭のシーンで、主人公がなにかを出来ないことを描く。
冒険をさせる。
ラストのシーンで、それがひとりでに出来るようになっているのを描く。
そのことについて、本編中で一切言及がないにも関わらず、
ラストに納得がいき、感動するのなら、
本編の冒険は、上手く内的問題と外的問題の解消を描けていると言える。
なかなか計画的に成長させることは難しい。
困難に直面させ、それを無理矢理にでも克服するという、
「強いられる」というパターンが一番やりやすい。
ピーマン嫌いの人が、大魔王に殺されるかピーマンを食うか選べ!
と強いられる、という極端な場面で理解するといいだろう。
ピーマンや大魔王を、もう少し現実的なものに置き換えるとよい。
内的困難(性格のアンバランス)では絵にならないから、
外的困難(ピーマン)で描くのが、映画的な考え方だ。
(小説だと内面描写が出来るから、内的問題だけを純粋に書くことが可能だ)
2014年07月16日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック