最初に訳した人が悪いと思うのだが、
日本ではこの名称で定着しているのでこの言葉を使う。
dramatic ironyだが、僕なら「知っていることの齟齬」と意訳する。
または「志村、後ろ!」だ。
劇的アイロニーとは、
「観客は知っているのに、登場人物は知らないこと」
のことだ。(またはその逆)
「テーブルの下に爆弾が仕掛けられているのを知らず、
テーブルで談笑する家族」などが例で出される。
観客はハラハラする。「いつ爆弾に気づくのか」と。
ラブコメでは、
主人公とヒロインが実は両思いなのは観客だけは知っていて、
当人たちが気づくのはいつかとハラハラ見守る、
というパターンがポピュラーだ。
ホラーでは、
怪物や殺人鬼の目線から、犠牲者を見ているシーンだ。
そうと知らず、犠牲者たちは人生を謳歌している。
いつ襲いかかるかハラハラする、「志村、後ろ!」のパターンだ。
コロンボのような、犯人を追い詰める系では、
犯人と観客だけが知っていることに、
どうやって、いつコロンボが気づくかハラハラする。
見逃してしまうのか、と思わせておいて、
「おや?」と一言。「これ、おかしくないですか?」と。
「待ってました!」の瞬間だ。
奥さんの浮気を夫は知らない、もその一種だ。
「俺戦争が終わったら彼女と結婚するんだ」とか、
「ちょっと田んぼ見てくる」という死亡フラグもその一種だ。
運命を題材にした作品では、
我々観客だけが俯瞰的神の視点に立てるようになっていて、
当事者たちはその運命的配置を知らないまま、人生を必死で生きる。
「クラッシュ」「バベル」「マグノリア」などの群像劇に多い。
「トリコロール三部作」では、赤青白の関係性を知っているのは、
観客だけである。
出落ちオチの作品も、その後の運命を我々は知っている、
という点でこのジャンルかも知れない。
「この登場人物は、このことをまだ知らない」というパターンは、
いくらでもバリエーションを考えることができる。
大小色々あるし、複雑な構造を作ることもできる。
焦点は、「いつそれを知るか」だ。
どれだけ時差があるかが、引っ張りの上手さだ。
逆に、「登場人物だけが知っている秘密を、遅れて観客が知る」のは、
あまり劇的アイロニーとは言わない。
ネタバラシとか、どんでん返しとか、衝撃の展開とか言う。
これを使えるようになると、
格段にストーリーへの引き込みが出来るようになる。
爆弾の赤か青かを切るシチュエーションで、
観客は赤が正解だと知っていると、
主人公の迷いをニヤニヤしながら楽しめる。
青を切ろうとして、ハラハラする。
(クイズ番組でも、先に正解を示して、芸能人たちの迷いを楽しむパターンがある)
「何が本当に起こっているか」に、時差をつくってみよう。
世界は、全ての情報が瞬間的に共有されない。
その時差がドラマを生むのだ。
そして登場人物同士の知っていることの差だけでなく、
観客とも時差をつくるのだ。
これは時間軸を持つ芸術だけに許される、独自の方法論だ。
2014年07月16日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック