キャラクタービジネスは、特に日本において盛んな、
特殊なビジネスだと思う。
キャラの印刷されたグッズ、フィギュアなどの立体物、
それらは莫大な利益を生むビジネスだ。
それは、偶像崇拝に似ていると思う。
どのまともな宗教も、偶像崇拝は禁止している。
仏陀もキリストもだ。
その理由は定かではない。
僕は「偶像が変化しないこと」ではないかと思う。
キャラだろうが神仏だろうが、
そのキャラ設定は厳密に決まっているものだ。
(仏は何に座り、右手と左手に何を持ち、どんな冠をつけ、
どんな部下を持っているかなどの、細かい規定がある)
それは、生成流転を説く仏教とは真逆の考え方だ。
キャラは変化しない。
変化したら、キャラが変わった、と怒られる。
これは映画的に言うと、成長しないということだ。
映画の中の登場人物は、必ず変化する。
主人公だけでなく、全員だ。
(例外は悪役だ。変化を拒んだから敗北するのだ)
全員が変化、成長する物語は、その冒険が人を変えてしまうほど、
劇的だったことを意味する。
その冒険を経験したことで、それをする前とは、
内面が変わってしまうほどの影響を受けたのだ。
たいしたことない冒険なら、ちょっとやって戻ってきただけだから、
成長も学びもない。
自分をつくりかえるほどの、ドラマチックな冒険をしたからこそ、
登場人物はそれに影響を受けて、成長や変化をするのだ。
逆に言うと、変化しない登場人物は、
たいした冒険などしていないのだ。
これとキャラは、相性が悪い。
映画の物語を深くすればするほど、
キャラが変化してしまうのである。
これはキャラクタービジネスに使えない。
出来のいい映画の登場人物は、キャラクタービジネスに使えないのだ。
映画内のキャラクターを使ってキャラクタービジネスをしたのは、
ジョージ・ルーカスが最初かも知れない。
スターウォーズのキャラクタービジネスは、変化するルークやハンソロより、
ダースベイダーやストームトルーパーや、C3POやR2D2がメインだったろう。
(ついでにメカもだ。デススターの模型欲しかったなあ)
キャラクタービジネスが儲かることを皆が知ってしまってからは、
それが物語に影響してしまうことがある。
キャラ設定を変えられないことで、
変化を描けないという本末転倒の現象だ。
例えば藤子不二雄の作品群は、「永遠の日常」をループする。
だからドラえもんものび太もジャイアンも、
オバQもキテレツも、キャラである。
変化しない登場人物なのだ。
それはある種の偶像崇拝ではないか。
映画の登場人物は、必然的に、キャラと遠く、
偶像崇拝にもならない。
もしなるのなら、それは登場人物として中途半端なのだ。
ロッキーが偶像崇拝されるのは、街のチンピラの前半より、
全てをなしとげたラストにおいてだ。
ファッション的には前半のほうがカッコイイんだけど。
ロッキーのラストは、静止画だ。
ロッキーは動かないこと=静止画になることで、
偶像になったのである。
映画ポスターは、偶像崇拝のアイテムのひとつだ。
ポスターがキャラを並べただけで、
ストーリーを想像出来ないものを、
僕はよく批判する。
それは、偶像崇拝と関係していたのだ。
あなたは、映画を書くのなら、
キャラを作ってはいけない。
必ず、変化する人物を考えるべきだ。
あなたが偶像崇拝で儲けたいのなら、
変化しない登場人物を、キャラとして出すとよい。
長期連載モノでは、キャラが話を引っ張ることが多いから、
そのキャラが作者を、金銭的にも内容的にも助ける筈だ。
映画とキャラは、疎外し合う存在である。
2014年07月21日
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