2014年07月21日

キャラとは、偶像崇拝のこと

キャラクタービジネスは、特に日本において盛んな、
特殊なビジネスだと思う。
キャラの印刷されたグッズ、フィギュアなどの立体物、
それらは莫大な利益を生むビジネスだ。

それは、偶像崇拝に似ていると思う。



どのまともな宗教も、偶像崇拝は禁止している。
仏陀もキリストもだ。
その理由は定かではない。
僕は「偶像が変化しないこと」ではないかと思う。

キャラだろうが神仏だろうが、
そのキャラ設定は厳密に決まっているものだ。
(仏は何に座り、右手と左手に何を持ち、どんな冠をつけ、
どんな部下を持っているかなどの、細かい規定がある)
それは、生成流転を説く仏教とは真逆の考え方だ。
キャラは変化しない。
変化したら、キャラが変わった、と怒られる。


これは映画的に言うと、成長しないということだ。

映画の中の登場人物は、必ず変化する。
主人公だけでなく、全員だ。
(例外は悪役だ。変化を拒んだから敗北するのだ)
全員が変化、成長する物語は、その冒険が人を変えてしまうほど、
劇的だったことを意味する。

その冒険を経験したことで、それをする前とは、
内面が変わってしまうほどの影響を受けたのだ。
たいしたことない冒険なら、ちょっとやって戻ってきただけだから、
成長も学びもない。
自分をつくりかえるほどの、ドラマチックな冒険をしたからこそ、
登場人物はそれに影響を受けて、成長や変化をするのだ。
逆に言うと、変化しない登場人物は、
たいした冒険などしていないのだ。


これとキャラは、相性が悪い。
映画の物語を深くすればするほど、
キャラが変化してしまうのである。
これはキャラクタービジネスに使えない。

出来のいい映画の登場人物は、キャラクタービジネスに使えないのだ。

映画内のキャラクターを使ってキャラクタービジネスをしたのは、
ジョージ・ルーカスが最初かも知れない。
スターウォーズのキャラクタービジネスは、変化するルークやハンソロより、
ダースベイダーやストームトルーパーや、C3POやR2D2がメインだったろう。
(ついでにメカもだ。デススターの模型欲しかったなあ)


キャラクタービジネスが儲かることを皆が知ってしまってからは、
それが物語に影響してしまうことがある。
キャラ設定を変えられないことで、
変化を描けないという本末転倒の現象だ。

例えば藤子不二雄の作品群は、「永遠の日常」をループする。
だからドラえもんものび太もジャイアンも、
オバQもキテレツも、キャラである。
変化しない登場人物なのだ。

それはある種の偶像崇拝ではないか。


映画の登場人物は、必然的に、キャラと遠く、
偶像崇拝にもならない。
もしなるのなら、それは登場人物として中途半端なのだ。

ロッキーが偶像崇拝されるのは、街のチンピラの前半より、
全てをなしとげたラストにおいてだ。
ファッション的には前半のほうがカッコイイんだけど。
ロッキーのラストは、静止画だ。
ロッキーは動かないこと=静止画になることで、
偶像になったのである。

映画ポスターは、偶像崇拝のアイテムのひとつだ。
ポスターがキャラを並べただけで、
ストーリーを想像出来ないものを、
僕はよく批判する。
それは、偶像崇拝と関係していたのだ。


あなたは、映画を書くのなら、
キャラを作ってはいけない。
必ず、変化する人物を考えるべきだ。

あなたが偶像崇拝で儲けたいのなら、
変化しない登場人物を、キャラとして出すとよい。
長期連載モノでは、キャラが話を引っ張ることが多いから、
そのキャラが作者を、金銭的にも内容的にも助ける筈だ。

映画とキャラは、疎外し合う存在である。
posted by おおおかとしひこ at 02:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック