キャラは不変なのが原則だが、
一度だけキャラを変えてよい。
登場時だ。
登場したとき、たいてい何かもめごとを起こし、
仲間になったりするエピソードがある。
(スラムダンクの三井が分かりやすい)
もめごとのあとは、定常状態になるのだ。
キャラは、登場時とその後の定常状態のふたつ描ける。
たいてい定常状態のものを定番キャラとし、
初期状態を初期○○などのバリエーションとして扱う。
(3Pシューターとしての三井か、ロン毛で前歯のない三井か、
という話。井上雄彦の上手さは、髪型を変えたことだ。
心境の変化とキャラの変化を漫画的に表現している)
新キャラは、登場エピソードが全てだ。
登場の瞬間だけでなく、登場→活躍(もめごと)→定常状態までの一連が、
登場エピソードと考えるとよい。
ちなみに、この登場エピソードがそのキャラにとってのピークである。
その後の定常状態では、そのキャラにドラマは用意されない、
いわば「飼い殺し」が続く。
何故か。キャラを変えられないからだ。
そのキャラを保つ為だ。
逆に、そのキャラにドラマが用意されるということは、
キャラが変わるということだ。
ドラゴンポールにおけるピッコロを考えよう。
大魔王としてのピッコロが仲間になったときに、
キャラの変わるドラマとなった。
僕にとってのピッコロは、仲間としてのピッコロではなく敵としてのピッコロだが、
仲間としてのピッコロのほうが期間的には長いだろう。
ピッコロの定常状態、つまりキャラのイメージは仲間としてのピッコロだ。
敵としての初期ピッコロと、区別される。
仲間になるというドラマを通じて、キャラ変が起こっている。
つまり、ドラマはキャラを変える。
映画では普通のことであるが、
漫画では、登場エピソードがドラマであり、
その後にドラマがないのが普通だ。
主人公が目立たないという長期連載での問題は、
主人公に関するドラマが尽きて、
新キャラの登場エピソードだけで話を続けている不自然さにあるのだ。
ドラマ版風魔では、この構造を意識した上で、
登場即死、キャラの使い捨てと言われる原作版に改良を加え、
死ぬキャラに対して「登場エピソード」を設定することを意識した。
「感情移入した瞬間、そのキャラの死に立ち合う」という構造に、
結果的になった。それが魅力となっていったのだ。
また、特に前半戦では、風魔の生き残り4忍が、
小次郎にとってどういう影響を与えるかを、ドラマとして描いた。
これが生き残り組の「登場エピソード」になるようにしてあるのだ。
(同時に、小次郎の影が薄くなる原作版の欠点をカバーしている)
一方、主人公小次郎と裏の主役壬生だけが、
作品全体を通して成長、変化している。
だから小次郎のキャライメージは、
初期のコント系か、風林火山習得後の最終形か、
人によって異なる。
壬生のイメージも、
登場時の自信溢れる状態→ヘタレ→暴走→黄金剣マスター後
と、どれが壬生かは人によって異なるだろう。
他のキャラクターは、キャラクタービジネスに使えるかも知れないが、
小次郎と壬生は、変化しないキャラクターではなく、
変化した人間である。
だからキャラクタービジネスとは相性が悪い。
(舞台版がキャラクターショウになってしまったのは、
原作にないドラマ版の、この小次郎と壬生の変化のドラマを
脚本に入れていないからだ。原作準拠といえばそれまでだが、
原作は所詮キャラクターショウなのだ)
キャラが好きになるのは、
ビジュアル(髪型とか服とか)や
性格(優しいとかツンデレとかヤンデレとか)などの、
定常状態ではない。
登場エピソードのドラマ的な変化によるものだ。
キャラクター優先で物語をつくると、
変化しないことを優先しがちになる。
それは、キャラクター前提の漫画やアニメの見すぎだ。
物語を書くのなら、登場人物の変化を前提に考えるべきだ。
物語を見せるのではなく、芸能人を見せるのが主になってしまった昨今のドラマでは、
登場人物のキャラが変わらないことが普通になってしまった。
芸能人とは、キャラという偶像崇拝のことだ。
キャラを変えられないのは当然のことだ。
芸能人偏重は、ドラマを殺す。
キャラ偏重は、物語を殺す。
仏陀やキリストが偶像崇拝を禁じたのは、
生成流転のこの世の法則の外にあることを、
知っていたからかも知れない。
2014年07月21日
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