2014年07月22日

ヌーヴェルバーグとは何だったか

改めて「勝手にしやがれ」を見たのだが、
大学生当時に思っていたこととは全く違うことを思った。
ストーリーテリングが、この人は下手なのだと言うことだ。

素人が書いた話はこうなりがちだ。
他山の石として見てみるとよいだろう。


ヌーヴェルバーグとは、従来の映画を否定する運動だった。
いつの時代もある、老害追放を叫ぶ若者の運動だ。
やることは、旧来の文法の破壊である。
この時代に否定されたものは、
セット撮影、アフレコ、綿密な段取りである。


本当の場所でない、スタジオにセットを組んで撮影することは、
映画の空間を「つくる」ことだ。
ストーリーに都合のいい配置、カメラを置きやすい構造、
絵作りをしやすい環境(照明の多さ)であるセットを捨て、
カメラは街へ出た。
つくられたセットは不自然だと考えられたのだ。

外で撮影することは、特に街中ではあり得ない。
人に迷惑だからだ。
それをものともせず、ゲリラ撮影で街へ出た。
(これ以降の撮影に許可が必要になったのも、
この時代以降が無許可で無茶したからだ。
ちなみに、「ヴァージン・スーサイズ」の渋谷のシーンは、
全て無許可のゲリラ撮影だ。この為渋谷は渋滞、大混乱になったという。
外人たちは撮り終えて逃げてしまったが、
我々国内の撮影班には、渋谷で撮影禁止のお達しとなった。
いまだにそれは解除されていない)

リアルな風景は手に入れられたが、
短時間のゲリラ撮影のため、練習が必要な綿密な段取りを捨てた。
その場のアドリブ的な演技になってゆく。


アドリブは、室内の撮影でも同じである。
「勝手にしやがれ」では、半分ぐらいが、
主人公とヒロインのイチャイチャで占められ、
それはアドリブ(その場の即興)であった。
男女の会話が、段取りがあるのはおかしい、
現実は、もっと曖昧で、不可知で、気まぐれである、
と考えられたのだ。
映画のような段取りは、不自然だと考えられたのだ。


アフレコの否定も、段取りの否定だ。
台詞は基本は同時録音するものだが、
言ったつもりでも聞き取りにくかったり、
周囲のノイズのせいで聞こえなかったりすることがある。
(スタジオは、だから台詞以外の音をあとで足してミックスできるように、
静かな環境で収録できる)
そのときは、編集後、ラッシュを見ながらアフレコするものだ。
これが上手い役者は殆どいない。
口を合わせるのが精一杯で、撮影時の気持ちまで再現できないのだ。
(アニメ的な芝居ではなく、自然の芝居ということ)
だからアフレコの場面は、不自然になることがとても多い。

不自然、不自然、不自然。

全てはリアリティーの為。
この作品で多用されて有名になったジャンプカット
(長回しの絵をぶつ切りに編集する)も、
ゲリラ撮影のアドリブの芝居の、
「使えるところだけ繋ぐ」というお粗末な編集方法でしかない。


ヌーヴェルバーグは、ドキュメントのやり方にヒントを得ている。

セットでなく、本物のその場所を撮る、
ヤラセではなく、その場で起こったことを撮る、
その場の音をそのまま拾い、加工しない、

という、ドキュメントの原則を、劇映画に使ってみた、
という流れだったのだ。

「思想的な運動」などと難しく考える必要はない。
リアルにつくりたかった、
ただそれだけなのだ。



さて、実は、これと同じような運動が、
映画界で起きている。

手持ち撮影の多用である。

フィックスで美しく作った絵を捨て、
現実のリアルな感じを、まるでドキュメントのように撮る手法だ。
「プライベート・ライアン」で大々的に使われて以後、
「ブレアウィッチプロジェクト」やPOV映画以降の流れだ。

作り込んだ絵や段取りや、脚本通りの台詞まわしより、
役者のアドリブや事件感、役者のリアルなリアクションなどが、
リアリティーに寄与しているという。


果たしてそうだろうか。


僕は、リアルなそのような追及は、
単にストーリーを語るのが下手だからではないかと思うのだ。

「恋の渦」「ロサンゼルス決戦」あたりの、
そのようなスカスカの内容の、
ドキュメントチックな映画を見てみるとよい。
(まだ見てないが、「グラビティ0」も似た傾向を予感する)
「事件」の臨場感はある。
リアルなその場に放り込まれた感じはとてもある。
しかし、あとに何も残らない。
イベントに参加しただけで、それが一体何であったのか、
という知性が足りない気がするのである。

つまり、疑似体験は物語ではない、
という重要な発見が逆にあるのだ。

物語は疑似体験だが、疑似体験以上のものなのだ。
疑似体験を通して、それを「知的に整理したもの」が物語なのだ。


ドキュメントの方法論で言えば、
現実に起こったことを記録しながら、
ナレーターがまとめるパートに相当する。
ドキュメントでは、
そこで一体何が本当に起こっているのか、
ナレーションで解説する。
それが一体どんなものであったか、
ナレーションでまとめる。
ただ刺身を切って並べるだけでなく、
これがどこで取れた魚で、どの部分が旨いかを解説するようなものだ。
その解説がないのなら、
それはただの切り身だ。
一回しか起こらない、ただのイベントだ。

それを「理解する」ことが、知性をはたらかせるということだ。


ヌーヴェルバーグも最近のそれも、
まとめてドキュメントスタイルとしよう。

本来のドキュメントのナレーションに当たる部分、
つまり、この事件が我々にとってなんの意味があったか、
という、解説や知性に当たる部分が、
それらには決定的に欠けているのだ。

それは、有り体に言えば、テーマの不在なのだ。
モチーフはある。ありすぎるぐらいリアルだ。
だが、それは切り身でしかない。

その魚が俺達にもたらす意味にまで、到達していないのである。



ヌーヴェルバーグは、全部見た訳ではないが、
たしかに旧来の映画を、ドキュメント方向にした。
しかしそれは成功した運動というより、
誰もが真似をして、ポピュラーになっただけのことだ。
今の映画は、
古典スタイルとドキュメントスタイルを、
場面によって使い分けるぐらいの器用さは持っているものだ。


「勝手にしやがれ」は、その一里塚としての価値はある。
それはもはや歴史遺産でしかない。

その後の雰囲気映画、オシャレ映画を生み出した、
元凶といっても過言ではないだろう。


ドキュメントスタイルだろうが、
古典スタイルだろうが、
ストーリーテリングさえ上手くいくのなら、
それはどちらでもよいはずだ。
むしろ語るべきストーリーに合わせてスタイルは変わるはずだ。

ストーリーテリングが一番なのだ。
そしてストーリーテリングとは、
事件を知的に見る力のことだ。
だからこそ、段取りも練られた台詞もあるのだ。

ドキュメントスタイルを安易に採択する映画は、
「練り」を放棄しているに過ぎない。
(格好の例は、石川寛の「tokyo.sora」「好きだ、」あたりか。
この詰まらないアドリブは、全てこの記事で解説できる)

「練り」とは、事件をどんな順で、どんな段取りで見せて、
どんな段取りで締めるか、そういうことだ。
その為にこれしかないまで詰めた台詞を書くことだ。


少なくともゴダールの方法論は、
いつも練りが足りない気がする。

つまりそれは、ストーリーテリングが下手くそだと言うことだ。
(「勝手にしやがれ」では、脚本にトリュフォーがクレジットされている。
恐らくトリュフォーの書いた部分は、冒頭の警官殺し、
女の家に行く、ミッドポイントで警察に感づかれる、
包囲網狭まる、ラストシーンぐらいだろう。
その他は全てアドリブになったのだ)


即興演奏は芸術か?
という難しい問いがある。

音楽は消えるもの、と想定されれば、イエスだ。
残るもの、と想定されれば、ノーだ。


ドキュメントスタイル映画は、残らないものならアリかも知れない。
ヌーヴェルバーグは、消えるものだったのだ。
我々がブルース・リーを惜しむように、
「勝手にしやがれ」を惜しんでいるだけなのだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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