二種類ある。
その1。
現場の見取り図を書く。
次に、人物と小道具の「最初の位置」を設定する。
それから、脚本に沿って、頭の中で芝居を構築する。
(細かい表情やセリフの抑揚や身振りについては、大体でいい)
演出家がすることは、
小道具の持ち方と、人と小道具の導線と、
人の体の向きと顔の向きを決定することだ。
どの台詞のところでどこにいて、どこを向いているかを決める。
どの時点にどこにいて、次はこちらに向かって歩く、振り向く、などを決める。
これをステージングという
(振り付けと僕は訳す。日本映画業界ではダンドリという)。
水平面上の動きだけでなく、立つ、座る、寝る、転がるなどの
高さの振り付けについても、必要であれば決める。
ステージングは、役者と相談して決めることもあるが、
基本的にはカットでものを語る監督のものである。
(とはいえ、現場の判断で柔軟に変わりうるものだ。
だから絵コンテは、全部無駄になることもある。
「いけちゃんとぼく」では、清じい登場の牛乳屋のシーンは、
コンテと左右が全部反対であった。現場で全部反転しながら撮影した。
「割れたせんべい」では、想定していたアングルでは芝居が撮れないことが発生した。
店の構えが想定と違ったからだ。現場の建物ありきで芝居は決まるものだ。
一歩あるいてセリフにしたほうが、現場的には自然な芝居だった。
カメラの配置をそれ用に現場で変え、編集で成立するように前後をコントロールした)
絵コンテを書くための第一条件は、
頭の中で、3D空間に芝居を構築する能力だ。
それには、「芝居をする力」と、イマジネーション力が必要である。
ステージングという演出方法は、舞台演劇の方法論だ。
上手登場や下手退場は演出家のものである。
それは、それに厳密に意味があるからだ。
(下手な人ほど、一歩もその場で動かない、板付きと呼ばれる芝居になる。
人は動く。それをシミュレートする)
二人芝居ならなんとかなっても、三人、四人、沢山になると難しい。
(台詞を言う人以外は棒立ちの板つきになりがち)
基本はメインの動きを決めて、サブをそれに合わせることである。
つまり、場面には主副が存在する。
アクション(脚本的な行動の意味ではなく、文字通りの危険なアクション。
またはダンスや馬や車に乗るなど、大きな芝居)
が絡むと、振り付けは更に複雑になる。
(ちなみに殺陣師は、ハリウッドではファイトコレオグラファーという。
コレオグラファーとは、ダンスの振り付け師のことである。
バレエのような伝統的な優雅なものからコミカルなものまで担当する。
アクションすら、振り付けの範囲なのだ)
それらの芝居が、台本の文脈を上手く表現できているかがポイントだ。
芝居にリアリティーがあることも大事だ。
リアルを超越した、独特のリアルになっていることも大事だ。
芝居が決まったら(業界ではダンドリが決まったという)、
ようやくカットを割る。
どの芝居の時にアップになって、どの時にヒキにするのかを決める。
カメラがフィックスなのか、移動撮影かも決める。
それは、文脈をどのように解釈しているかと関わりがある。
「その時に今一番大事なもの」を撮るのが原則だ。
それが個人の表情ならアップだし、その場の空気ならヒキだ。
カメラポジションを決め、あとは絵を描く。
絵を描くときに重要なことは、
人物のサイズと身振りと向きである。
これさえ合っていれば絵は下手でいい。
もうひとつ絵で重要なのは、背景(業界ではヌケという)だ。
あるカットの時、「背景が何か」は絵に決定的な影響を与える。
喋る人物の後ろに見えているもので、絵の意味は大きく変えることもできる。
(ぼかすことも、フォーカスを合わせることも、表現意図である)
振り付けの下手な人は、背景の空間を生かした絵作りが出来ない。
(たとえば、部屋の中の二人芝居で、両方ともヌケが壁になって、
狭苦しい部屋になったりする。
部屋の空間を表現できるように、背景を上手く選ばなければならない。
逆に、カット割によって、現実空間より広く見せたり狭く見せたり、
同じくらいに見せることができることが可能だ)
ある空間で人をどこに置き、どこから何ミリで狙えばどういう絵が撮れるか、
演出家は分かっている必要がある。
それを考えた上で、カット割は描かれる。
アマチュアはここまででよいが、プロには更に厳しい要求がある。
決められた撮影時間内に終わらせられるカット割りでなければならない。
これを想定した上で、移動撮影や切り返しの配分を考える。
さらにプロは、光のことも考える。
セット撮影なら、キーライトがどこに来るか、
窓際にどう光が来ているか、その他の光の場についても考える。
ロケ撮影なら、何時にはここは逆光になる、ということも考えた上でカット割りをする。
撮影時間と太陽(屋外でのキーライト)の関係だ。
これが、理想的な絵コンテを描く方法だ。
3Dのパズルだ。否、時間軸があるから、4Dのパズルである。
そして、カット割の極意とは、「カットが変わったことが気づかれないこと」だ。
流れるようにスムーズに、物語はすすむべきである。
カット割がされていないと観客が錯覚するぐらいに、
カット割は物語の抑揚に従うべきである。
ヨリやヒキや、どこからどう撮るか、
台本のどこからどこまでがそのカットかを、最終的には描く。
しかし、それは以上の条件を全て満たしたものであるべきだ。
下手なカット割は、プロならすぐ見抜く。
イマジナリラインを越しているだけでなく(人物の位置関係が混乱する)、
ヨリヒキのバランスが悪く、
カットの切り替えが不自然であることが多い。
「何がそこで語られているか」を邪魔するのが下手なカット割だ。
絵コンテの書き方。
その2。
撮りたい絵をまず描く。
これは、絵の力に頼ったコンテの書き方である。
美しい絵、インパクトのある絵を優先する。
絵心がある監督は、まずこれを考える。
ただし、内容と乖離した絵を描くことに夢中になる危険がある。
(ターセムの「落下の王国」は、絵画的な絵の素晴らしい映画である。
その美しさは、群を抜く。だがしかし、物語の内容と関係がないという点で、
あれは映画ではなく、写真集にすぎない)
「撮りたい」という衝動が、どんな衝動かによるのだ。
こんな絵をただ撮りたいという表現欲なのか、
物語を絵で表現したいという表現欲なのかを、
自分の中で自覚して分けておく必要がある。
物語が白熱しているときは、絵優先でなく、物語重視のカット割にすべきだ。
物語が退屈しているときは、絵を優先して、美しい絵で観客を楽しませるべきである。
そのバランスを見極めるのが、いい演出家である。
(アニメの監督には、これをする人が多いように感じる)
撮りたい絵を中心にカット割をする。
撮る「べき」絵を周りにならべて補足し、モンタージュするとよい。
その1とその2は、
脚本に応じて、随時スタイルを変えて良い。
その2は、オープニングで度肝を抜く時によく使われる。
あるいは、ストーリー的に重要なポイントになるところに使われる。
(昔の映画は予算がなかったから、本当に大事なところだけ予算をかけていた。
いまは何でも出来てしまうから、かえって強弱が分かりにくくなっている。
50年代や60年代の映画では、銃は最後の最後まで撃つことはなかった。
火薬の発火の撮影が難しいからだ。
それが、クライマックスのたった一回の引き金にドラマを集約させ、
その一発が決定的になるようになっていた。
「チャイナタウン」「サンセット大通り」などが思い出される)
その1はストーリーを進めるのに使う。
その2ではじめておいて、いつの間にか1に移行していて、
時折キモになる部分で2になるのが、
理想の絵コンテだ。
その2は様式美におちいりがちだ。
ビスコンティ映画なんかはその最たるものだろう。
逆にその1だけの追求が、おそらく「リアリティー重視」のドキュメント手法だ。
段取りを気づかれないようにしていくと、その場のライブ感が増してくるのは、
分からないでもない。
が、映画はシャシンで語ることも出来るメディアだ。
そのシャシンは、ドキュメンタリ=報道写真ではなく、
ノイズを丹念に除いた、ポートレイトや水彩画や、
つくりこんだ油絵のようなシャシンになるはずだ。
ふたつを狙い通りに使い分け出来る演出家が、
優秀な監督である。
ちなみに中島哲也は、この達人である。
彼のコンテはいつもすばらしい。
「渇き。」の挑戦も賞賛に値する。
現代の先鋭アートであることだけは間違いない。
かの映画の失敗は、脚本(つまり、ストーリー)にあるだけだ。
そこでようやくこの話は、脚本論に戻ってくる。
ホンが面白くないのなら、どう絵コンテを描いても、無駄なのだ。
2014年07月22日
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映像の勉強をしておりこちらのブログを通りかかり読ませて頂きました。
大変ベンキョウになりました。
一つ質問させて頂きたいのですが、上記に
「撮りたい絵を中心にカット割をする。撮る「べき」絵を周りにならべて補足し、モンタージュするとよい。」
とありますが、これは時間の流れの中の、中心と周りということでしょうか、
それとも一画面の構図における中心とまわりということでしょうか。
未熟で理解に乏しくお恥ずかしいのですが教えて頂けたらと思います
撮りたい絵は1カットのことなので、時間軸上に、ということですね。
そのシーン全体のどこがキモになるか、が中心。
その前後が周り、と考えるとよいですね。
絵のことと時間のことが、日本語だと同じ言葉になっちゃいますね。
モンタージュとは、時間軸上になにを並べるか、という意味です。