2014年07月23日

殆どの映画は、このテンプレを埋めればつくれる

A「故あって、Bを殺すことになりました。」
B「故あって、Aを殺すことになりました。」
AとBの決闘がクライマックスとなる映画は、
この「故あって」をクライマックスまでうまくつくればつくれる。

AとBは個人でもよい(原始的)し、
チームや組織(近代的)でもよい。
「殺しあう」ことを最も過激として、
それを「ルールに乗っ取った戦い」にするバリエーションも存在する。

決闘は、「自分が死ぬリスク」が重要だ。
「自分が死ぬリスクよりも、相手を殺すことが上回る」ことの、
故を描ききれれば、それがストーリーである。
「死ぬ」は物理的でも、抽象的でもいい。
(たとえば名誉や、社会的生命を賭けてもいい)

このクライマックスに向けて、AとBの、「故あって」を
実に上手くつくることが、映画のストーリーを考えることだ。


テンプレはもうひとつある。

A「故あって、自分を犠牲にしてでもBを愛そうと思う」
B「故あって、自分を犠牲にしてでもAを愛そうと思う」
の、双方の「故あって」を埋めればよい。

これはラブストーリーのテンプレだ。
二人の愛が成就すること、即ち二人の思いが一致することがクライマックスだ。
(結婚やキスが多いが、「思いが一致する」即ち心中でもよい。
Oヘンリーの「賢者の贈り物」は、思いの一致の結果、
互いに悲劇を行う)

自分を犠牲にして、というリスクは、
決闘と同じことである。

AとBが個人ならラブストーリーとなるが、
団体なら、社会や家族の絆を描く物語になったりするかも知れない。



いずれのテンプレも、
リスクが大事だ。
そのリスクを犯す理由、すなわち動機である。
初期状態から、そのクライマックスに至るまでの、
「双方の物語」が書けていることが、
このテンプレを埋める条件だ。

ストイックにAとBだけを描いてもよい。
その周囲の登場人物に、サブプロットをつくって、
メインプロットを進めやすくしてもよい。



世の中の殆どの映画は、たたかうか、あいするかだ。
それは、自分を犠牲にしてでも、なのだ。
しかも、双方の「故あって」があるのだ。
映画は、だから、おもしろいのだ。
posted by おおおかとしひこ at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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