A「故あって、Bを殺すことになりました。」
B「故あって、Aを殺すことになりました。」
AとBの決闘がクライマックスとなる映画は、
この「故あって」をクライマックスまでうまくつくればつくれる。
AとBは個人でもよい(原始的)し、
チームや組織(近代的)でもよい。
「殺しあう」ことを最も過激として、
それを「ルールに乗っ取った戦い」にするバリエーションも存在する。
決闘は、「自分が死ぬリスク」が重要だ。
「自分が死ぬリスクよりも、相手を殺すことが上回る」ことの、
故を描ききれれば、それがストーリーである。
「死ぬ」は物理的でも、抽象的でもいい。
(たとえば名誉や、社会的生命を賭けてもいい)
このクライマックスに向けて、AとBの、「故あって」を
実に上手くつくることが、映画のストーリーを考えることだ。
テンプレはもうひとつある。
A「故あって、自分を犠牲にしてでもBを愛そうと思う」
B「故あって、自分を犠牲にしてでもAを愛そうと思う」
の、双方の「故あって」を埋めればよい。
これはラブストーリーのテンプレだ。
二人の愛が成就すること、即ち二人の思いが一致することがクライマックスだ。
(結婚やキスが多いが、「思いが一致する」即ち心中でもよい。
Oヘンリーの「賢者の贈り物」は、思いの一致の結果、
互いに悲劇を行う)
自分を犠牲にして、というリスクは、
決闘と同じことである。
AとBが個人ならラブストーリーとなるが、
団体なら、社会や家族の絆を描く物語になったりするかも知れない。
いずれのテンプレも、
リスクが大事だ。
そのリスクを犯す理由、すなわち動機である。
初期状態から、そのクライマックスに至るまでの、
「双方の物語」が書けていることが、
このテンプレを埋める条件だ。
ストイックにAとBだけを描いてもよい。
その周囲の登場人物に、サブプロットをつくって、
メインプロットを進めやすくしてもよい。
世の中の殆どの映画は、たたかうか、あいするかだ。
それは、自分を犠牲にしてでも、なのだ。
しかも、双方の「故あって」があるのだ。
映画は、だから、おもしろいのだ。
2014年07月23日
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