人は何故物語を見るのか。
「(自分も含めた)世の中の死に納得がいかないから。
人は、納得のいくはじまりと終わりを見たいのだ」
という説がある。
映画でも演劇でも、ラストは暗転である。
つまりこれは物語の終わりであり、
一種の死である。
現実の世の中は、なかなか法則どおりに、
物語のようにはいかないものだ。
我々は現実世界の理不尽さを、大人になればなるほど
(子供のときにもそれなりに)
身に染みて実感する。
ましてや死である。
納得しながら死ねる人はこの世でどれくらいいるのだろうか。
大往生と人が言っても、本人はそうなのだろうか。
我々は、気づいたら人生を生きることにさせられている。
我々は、気づいたら死んでしまわねばならない。
誕生と死を、我々は自覚的に体験できない。
(自殺は、出来るかもだが、出来たかどうか確かめる術はない)
そこに、理屈や筋の通っている、
はじまりと終わりは、殆ど存在しない。
何故俺はこの世に生を受け、何故俺は死ななければならないか、
その答えはどこにもない。
誰からの依頼でもなく、誰からの解説もない。
だから。
意味のある人生、意味のある死、
解説の出来る生を、人は見たいのだ。
物語のはじまりから終わりまでの有限な時を、
主人公として疑似体験して、納得して終わりたいのだ。
その人生に、何かしらの意味があったことを、
「理解したい」のである。
最後に暗転が来る意味。
それは死である。
納得のいく死を、そこで体験するのである。
納得いかなければブーイングだ。
作品のつまらなさにつき合わされたムカツキもさることながら、
それは自分自身の人生の答えのなさに無意識に触れているのだ。
「意味ないよねそれ」は、ポピュラーな悪口のひとつである。
優れた物語の最後の暗転は、
主人公の人生(や他の登場人物の人生)に、
納得のいく意味を与える。
ついでに成長やなんらかのカタルシスをもって終わる。
ちょうどいいところで暗転する意味は、
ここでひとつの納得のいく死を、疑似体験しているのである。
ありていに言えば、成仏するのだ。
巫女は絶頂を迎え死を経験する、
という太古の芸能のあり方は、
これと同じことを言っていると、最近思うようになった。
さて。
あなたの書く物語は、そのようなものを人々に与えるだろうか。
「暗転に成仏を求める」と短くまとめてみるが、
それを無意識下にあることを、理解して書いているだろうか。
(現実逃避とか、自己投影とか言われるが、
それは表面の現象の名であり、観客の中で起こっていることではない)
アマチュアだろうがプロだろうが、
それは変わらない、本質的な目標のひとつである。
演劇「マホロバ」での成仏ぶりは、なかなかのカタルシスがある。
ただ、「世界を言葉で理解すること」を振っておきながら、
その結論が、ザッパみたいに「世界の果てで言葉にならない唸り声をあげること」
かどうかは、帰結が違うような気がする。
ミズハは言葉によって非業の後半生を遂げたが、
それをミズハ自身が理解しない限り、最初の振りは帰結しない。
カン、カン、カン、ミズハー(名前は最初に覚える言葉のひとつ)
の伏線も含めて、
それを全てラストステージラスボスで成仏させるべきだった。
成仏、というのは分かりやすくて使いやすい言葉だなあ。
回収されてない伏線を、地縛霊にたとえるといいのだな。
物語の中では、
生まれたものは、納得のいく人生と死(または終わり)を、
与えなければいけないのだ。
(追記:マホロバ関連まとめました。→まとめ)
2014年07月25日
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