2014年07月26日

音楽の力

脚本論、ゆっくり進行でつづけます。

音楽の力はすごい。
その威力は、観賞時より、終わったあとの何日、何週間に実感出来る。
(僕は今もマホロバのテーマが頭の中をぐるぐるしている)
たとえばCMソングが頭の中から離れない経験ぐらい、
皆したことがあるだろう。

脚本と音楽の関係について、今日は書いてみる。


我々は時系列を、一瞬(おそらく数秒間)ぶんしか、
おそらく長期記憶に保存できない。
(これは僕の経験的仮説だ)

まず、
脚本の数ページを切り貼りするようには、
我々の時系列記憶を入れ替えたりもとに戻すことは出来ない。

たとえば「昨日あった面白いこと」を誰かに話すとき、
順番でしか、我々は話せない。
あることがあり、次にこれがあり、だからこうなって、
それ故ああなって…という理屈の連鎖として、我々はそれを話す。
その連鎖(因果)こそが、実は我々の時系列の記憶の仕方だ。

ところが、このディテールは、次々に記憶から失われていく。
経験したその日や2、3日は、頭からオチまできちんと繋がっていた糸が、
時を経るにつれ、切れはじめていく。
つまり、場面場面の記憶になっていくのだ。
おそらく、何年も経てば、それを思い出す限界時間は数秒間だ。
数秒間ずつ、いくつかの場面を、脈絡なしに記憶から思い出すレベルになる。

これは人間の脳の能力だ。
過去の記憶を今のエリアから排除しないと、
今の事態に対処出来ないから、人には忘れるという力がある。
が、完全に消えるわけではなく、たくみに人は記憶を構造化して脳内に蓄えるのだ。
(その構造化の過程が夢だという仮説がある)
場面場面のぶつ切りの記憶を、因果の糸にしたがって、
再び時系列に並べることが出来るように、いわば圧縮しているのだ。
(その因果の糸こそがストーリーの正体ではないか、
という仮説は以前に書いた)

場面場面ではなく、ディテール別に覚えていることもある。
五感の別々の記憶として。
例えば昔の流行歌を聞けば当時の記憶を鮮明に思い出すように、
それらはどこかでリンクを持ちながら構造化されている。
(匂いを嗅ぐと思い出すのを、特別にプルースト効果というのは有名)


さて、映画である。(演劇、ドラマも)
テーマ曲を聞くと、鮮明に映画のテーマや場面場面が思い出されるのはそれと同じだ。
音楽は、時系列の記憶になんらかの効力を持つのだ。
記憶術でも、歌にすると覚えることが出来るのと同じだ。

連鎖の糸が切れがちな時系列の記憶を、
音楽の力で、ひとつに纏めるのである。
記憶を音楽に構造化するのである。


映画の中での音楽の力は、
劇中の感情増幅をするだけでなく、
記憶にも関係しているのだ。

経験的にもそれは理解できるだろう。
見終わったあと、テーマ曲を頭の中でぐるぐるさせながら、
その世界に浸ることは、映画好きなら何百回と経験しているはずだ。
その浸る間、場面を何度も反芻し、記憶を構造化しているのだと思う。
それをハマる、という言葉で示すこともある。
(その意味では、あの名テーマ曲が離れず僕はまだマホロバの世界を味わっている。
音楽にはそのような、強制的に思い出させる力がある)



さて、ここからようやく脚本論。
当たり前だが、出来の悪い因果の糸、すなわちダメ脚本では、
そもそも感情移入や満足はないので論外だ。

ある程度の出来を越えると、
人はそれを自分の体験のような形で記憶する。

そこに名音楽との出会いという奇跡があると、
その記憶は強烈になる。

因果の糸、すなわちストーリーを音楽と共に構造化するのである。


さて、冒頭に、時系列の鮮明な記憶は数秒間だという仮説をのべた。
テーマは、その数秒間におさまるのが理想だ、というのが本題。

言葉でテーマを言う必要はない。言うのは野暮だ。
映画は絵でそれを表現する。


数秒間の鮮烈な時系列の記憶を、ある絵として思い出す。
それが映画の記憶である。
それがそのストーリーのテーマになっているものが、
名作と呼ばれるのだ。
(最近死語になりつつあるが、名作映画のことを名画という表現をしていた。
それはなんとなくこの辺りをとらえている言葉だ)


あなたのストーリーに名曲がついたとき、
思い出される数秒間とは、どこのことだろう。
それは、テーマを現す名場面だろうか。
(どう考えても、ラストシーン近辺の記憶がそれだ)

あるいは、音楽と共に場面場面を思い出したとき、
それはどのような場面だろうか。
それがことごとくストーリーの構造のキモになっている映画こそが、
名作の構成というものである。
エンドロールで音楽が流れ、走馬灯のように名場面を想起するイメージだ。

あなたの脚本が映像化されるとき、
それに力があれば、力のある作曲家が名曲をつけてくれる可能性がある。
それによるあなたのストーリーの構造化された記憶を、
先にシミュレーションすることは、
物語の最終形の想像として、悪くないディテールだ。

(ちなみにマホロバで思い出すのは、オープニングのわさわさした感じと、
ラストの金の種である。それがテーマを現す絵かどうか、
そもそもテーマは何だったのか微妙なのが、惜しいところだ)

ことごとく名作を、名テーマ曲に乗せて思い出してみよう。
ラストシーン、またはテーマを現すシーン、
または、第二幕のお楽しみポイント(作品のコンセプトを現す名場面。
「プリティー・ウーマン」ならゴージャスに洋服を買う場面)
の筈である。

映画と音楽のマリアージュは、そのような形が理想である。
逆にシナリオは、そのような形になるように書かれるべきである。



つくづく、日本のタイアップ主題歌が映画をダメにしているのが分かる。
音楽会社が予算をある程度出す代わりに、売りたいアーティストをつけるような、
談合製作委員会方式は死ぬといいさ。

「いけちゃんとぼく」もそのようにしてつくられたのだが、
オープニングでも別れの名場面でも使われた、川嶋さんの名曲を、
エンディングでも使うべきだと今でも思っている。
(ラストシーンにピアノでリフレインしたのは、せめてもの僕の抵抗だ)
タイアップ主題歌を決めるのは監督ではなく製作委員会というのが、問題だ。

「風魔の小次郎」では規模が小さいゆえに、僕が意見を言えた。
担当アーティストは政治的に決まっていたが、
その代わり曲の内容については意見が通せた。
オープニングは派手なテンポで明るいヒーローロックに、
エンディングは姫子から見た小次郎への思いをつづるスローバラードに、
というのが僕の希望で、それは実現された。
(エンディングは絵的には全員の絆、という編集にしているが、
意味的には最終回後の姫子の気持ちを意図している。
狩人のように、女歌を男が歌うパターンだ、と僕は言った)
神OP、神EDとちまたで言われたのは、音楽の力を僕がコントロール出来たからだ。

(そうでなければ、アンカフェのミディアムバラードがオープニングに、
オンオフのロック調がエンディングに来る予定だったのだ。なんたる違和感!
製作委員会は、内容<売りたいもの、ということを知っておくべきだ。
それが内容を犯すかどうかに責任はない)


あ。マホロバのテーマ曲ってさ、「ナイトヘッド」に似てるよね。
posted by おおおかとしひこ at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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