2014年07月29日

リアリティーは、物語のブレーキか

ファンタジーがこうも人気なのには、
理由がある。
現実を舞台にすると、リアリティーが足枷になるからだ。

なにやら妄想したおもしろい世界を、
そんなことあるわけないだろう、という理性が潰してしまう。
だから、書き手は(観客もか)ファンタジーに、「逃げる」。
ありえない世界を描く為に、現実では制約が多すぎる、と思うのである。

果たしてそうだろうか。
僕は、逆だと考える。


なにやら妄想した世界のおもしろさを、
補強する為にリアリティーがあると、逆に考える。


ドラえもんが未来からきたとき、
何故机の引き出しから飛び出てきたのだろうか。

それは、多くの子供にとって、勉強部屋の引き出しは、
最もリアリティーのある場所のひとつだからだ。


現実にリアリティーがある場所から出てくる必要性は、そもそもない。
作中のタイムマシン理論によれば、ある時空の点と点を繋げばよいわけだから、
空間にいきなり穴があいてそこから出てきても、表現上はかまわないのである。
(のび太の恐竜などでもその描写はあるし、他にも多数ある)

それが机の引き出しという、
子供たちにとってリアリティーのある場所になったのは、
ありえない妄想(未来からなぞのロボットが来る)に、
リアリティーを持たせる為なのだ。

もちろん、押し入れでも、トイレのふたでも、学校のロッカーでも、
リアリティーのある場所ならどこでも良かった。
ただ、どこでもドアのような「任意の場所」ではない、
固定点が重要だ。


ファンタジーにおけるリアリティーを考える時、
たとえばドラゴンの羽が、
どれくらいの体重を飛ばすことが出来るのか考えることは重要だ。
生物運動学的なリアリティーの補強があれば、
ドラゴンは何キロまでのものを乗せて運べるかにリアリティーが増してくるし、
そのはばたく風がヘリコプターとどれくらい違うかを知っておくことで、
なびく髪にリアリティーを持たせることが出来る。

たとえば、ゲームとかで大剣を振り回すのが、
僕にはリアリティーがなさすぎて嫌いである。
金属バットや鉄パイプを振り回した経験があれば、
大剣を振り回しつづけるリアリティーを受け入れられる筈がない。

そのたびに、「そういう世界だから」という「仮の納得」を受け入れるならば、
物語世界の存在性だけでなく、
そのテーマすらも、そういうものだからと「仮に納得」されておしまいであり、
深いリアリティーをもつテーマに到達することはないだろう。

物語のテーマは、リアリティーのある実在のものでなければならない。
そうでない限り、すべて「仮の」ものになってしまう。
(僕がタランティーノ映画を嫌う理由は、
彼がすべてに対して「仮の」態度をとっているところだ。
かっこええからやってるだけやろ?ホンマのところはどう思っとるんや、
と、深いリアリティーへの到達が感じられないのだ。
それは、無意識に逃げていることでもある。
一方、ティム・バートンは「ビッグ・フィッシュ」という傑作において、
リアリティーのあるテーマへ触れ得た)



物語でやりたいことが先にあるべきだ。
どうしたらその物語が成立させられるかに、
リアリティーを従属させるべきだ。


たとえば、風魔の9話では、
ぼくが将棋の試合の公式ルールは全く知らなかっため、
氷川が「途中で長考する為にトイレへいくこと」が可能かどうかを調べる必要があった。

助監督が将棋連盟などに問い合わせて調べたのは、
「リアルでは『長考します』といって席を立つことはない」だった。
違う。
「長考します」と言わない限り、そのあとのドラマを続けることは難しい。
トイレに行くのはうんこがしたいからではなく、長考する為で、
それをこのシーンで観客にわからせることがドラマの段取り上必要だ。

詰めるべきリアリティーは、
「試合場で『長考します』という中座は、リアリティーがあるか、
リアルではないかも知れないが、別におかしくないか」
という質問だ。

「長考します」以外に、トイレに行く目的を短く表現できるセリフはない。
ドラマの進行の方が大事で、リアリティーはそれを補強するのだ。
(それ以外のセリフにするならば、普段この男はトイレで長考するのが癖である、
を事前に前振っておいて、この試合のときも「ちょっとトイレへ」と言う
段取りを踏まねばならない。
そのセットアップは、風魔たちのセットアップとは別に行わなければならず、
それは物語のテンポを著しく悪くする)

で、結局そう言う人がいてもおかしくない、というリアリティーを詰め、
みなさんの前に出た次第だ。

「『長考します』と普通言わない」というリアリティーの捉え方では、
それはリアリティーを物語のブレーキだとしか考えていない証拠である。
「『長考します』と言っても別にリアルではあり得る」というリアリティーの捉え方が、
リアリティーを物語の武器に使うやり方だ。

ついでに助監督が調べるべきは、
実際に対戦相手に長考するといって駆け引きに使う場合、
なんと言うのがリアリティーがあるのか、とか、
その場で長考する場合の周囲の雰囲気、とか、
長考する場所にはどんなところがあるのか、
とかのリアリティーであっただろう。
それのどれかを、使えるなら使うつもりで、リアリティーというのは詰めるのだ。
それがトイレよりリアリティーがあるのなら、
それありきでシナリオを組み直すこともありえるのだ。
(実際の話では、個室で誠士館のうわさ話を聞いてしまうことと、
顔を洗ったときに水道が何故か止まることのふたつが重要だった)


物語にリアリティーの枷をうまく使うと、とたんに表現がリアルになる。
上の例では、「長考する場所としてのトイレ」は、我々にとってリアリティーがある。
実際にトイレで長考する棋士が多いかどうかとは、関係がない。
我々「観客にとっての本当らしさ」が重要だ。
それは、観客がリアルに体験していることと、関係があるのだ。

たとえば、ファンタジーという世界でも、
「一人になって考える場所」としてトイレを持ってくることは、
人間のリアリティーに一役買うだろう。


結局は、人間の物語なのだ。
結局は、人間と人間の間のコンフリクトの物語なのだ。
どんな非現実な物語でも、
現実のリアリティーを使うことで、リアリティーを増すのだ。

「俺たちに明日はない」の銀行強盗シーンに、
そのリアルを上手く使った例がある。
逃走するための車をつけようとするのだが、
「駐車している車ばっかりで、止める所がない」というリアリティーを持ってくるのだ。
架空のはずの銀行強盗話がこの場面に出会うことで、
格段に現実味を帯びてくるのである。
(実際には実話なのだが、フィクションという体で話はすすむ。
実際の銀行強盗場面でこんな緊迫はなく、おそらく脚本家の創作だ。
しかしこのちょっとしたリアルが、リアリティーに寄与するのだ)

意外な所からリアリティーの枷を持ってくると、このように効果的となるだろう。
下手なリアリティーは、物語のブレーキになる。
上手いリアリティーの使い方は、物語のアクセルになる。
posted by おおおかとしひこ at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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