2014年07月31日

脚本とはなにか

マホロバ関連まとめたらまた凄い数の人が来たようで、
その人達が(興味本位なのか気になるのか)、
その他の脚本論も沢山読んでいるようです。

初期のころは基本的なことも書いてたけど、
最近は上級者むけの内容が多いので、
いっちょここらで、脚本の本質的な、
ふつうの人でも分かる話を書いてみます。

ずばり、脚本てなに?



すべての映画のパートの仕事のなかで、
脚本だけが、オリジナルをつくる仕事だ。
(原作つきじゃないとき)
役者も、美術も、カメラも音楽も、
全ては脚本にあることを表現するためにある。

脚本とは、ストーリーのことだ。
役者も、美術も、衣装も、ヘアメイクも、
特殊効果もCGも、カメラも照明も、
音楽もSEも、編集も合成も、
内容に責任をもつ演出部も、段取りに責任をもつ制作部も、
全てのスタッフは、ストーリーを語るためにいる。


ただ、ストーリーというのはかなり厄介なしろもので、
正確にそれを語る実体をもたないのだ。

いつだって、あらすじとか、プロットとかシノプシスとかの、
ざっくりした形をとっていて、
正確な細かいストーリーを表現する手段は、ないのだ。
たとえば、「今日あった学校での事件」ですら、
語る人間によってバラバラだ。
語る日によってもバラバラだ。
人は、不思議なことに、
それでもおおむね同じストーリーだと理解することができる。

つまり、ストーリーを一意に表現する方法はない。
報道ですら、各局によって原稿は同じではない。
即ち、ストーリーを正確にとらえる、唯一の方法はない。

これが最もストーリーの厄介なところだ。
ストーリーは、原稿そのものにではなく、
語る側と語られる側、双方の我々の頭の中に存在するのだ。


それを一端、文字にしたのが脚本である。
小説と違うのは、
ここから色々なスタッフが乗せていって完成形にするための、
ベースであることだ。
(料理でいう、レシピに近いのかも知れない)


伝統的に、
柱(その場所の簡潔な記述、いわゆるシーン)、
ト書き(人物の動作、人物の場所への登場と退場、その他捕捉)、
台詞(言う言葉だけでなく、特別に「……」を書くこともある)
の三要素で書くことになっている。

これには視覚的な要素は、文字で書かれるレベルでしか入っておらず、
音楽的な要素も書いていない。
各スタッフは、監督(演出)の指揮のもと、
具体的表現を試行錯誤してゆく。

ちなみに日本映画には、伝統的に伝わる、
脚本1ページが大体1分に相当する書き方があって、
そのフォーマットで書くのがスタンダードだ。
(作品置き場とかにサンプルあり)



ストーリーは、脚本にした瞬間厳密になる。

脚本家の第一の仕事は、ストーリーをつくることだ。
ざっくりと(プロット)か、
細かくか(シノプシスやトリートメントや下書き)、
厳密か(第一稿)は、各段階で異なる。

ストーリーは不定形だから、
実は脚本家や、脚本のバージョンによって、
かなりのバリエーションが可能性としてありえる。
それを、たったひとつの厳密な脚本(最終稿)に詰めるのが、
脚本家の第二の仕事である。

台詞はこれでよいのか、シーンの構成はこれでよいのか、
全体の構成はこれでよいのか、部分の構成はこれでよいのか、
入れ換えたり削ることで、よりストーリーが面白くなるか。
そんなことを脚本家は、日々考えたり、理論的に書き直したり、
閃きのまま書き直したりしている。
それは、このストーリーとはそもそも何か、
このストーリーのベストの表現とは何かを突き詰める闘いだ。
(最近色々な人の都合で、ストーリーをねじ曲げてまでも脚本を改訂することが、
素人の目にも分かるぐらい横行している。
分かりやすいのはごり押しキャスティングだ)

ものによるが、オリジナル映画脚本なら、
第一稿を上げるのに半年から三ヶ月(早い人なら一ヶ月)、
最終稿まで半年から三ヶ月(早い人なら二週間)ぐらい、
脚本家は、ストーリーと闘う。
(ハリウッドでは脚本に一年や数年かけることや、
複数の人が違うバージョンで書くことはよくある)



ストーリーは、
はじまり、展開、結末の時間的(因果関係)要素と、
登場人物とその関係、場所の空間的要素がある。
「面白いストーリー」というのは、展開部の面白いものを大抵言う。

時間的要素は、事件とそのリアクション(それを受けての行動)で、
ものごとが展開してゆく。
そのなかで最もストーリーを動かす人を主人公という。

主人公の登場から退場(途中で死ぬことはほとんどない)までを、
メインストーリーラインとよび、
その他の人物のストーリーを、サブストーリーラインという。
ストーリーは、複数のストーリーラインで出来ている。
複数のストーリーラインが全く関係なく同時進行することもあれば、
巧みに関係しあい重なりあうこともある。(そしてそれがストーリーの醍醐味だ)


ストーリーには、テーマというものがある。

テーマも、ストーリーと同じで一意の表現形式を持たない。
このストーリーのテーマは何か、という国語の問題で、
答えが記述形式なのは、その意味するところがあっていればあっているのであり、
一意の表現を求めているのではないのだ。
(数学や科学と違うところはここだ)

テーマとは、作者の訴えたかったことではない。
反戦とか差別反対がしたいのなら、
ストーリーを書くのではなく、論文や演説を書くべきだ。
ストーリーはプロパガンダに堕すべきではない。

ストーリーが表現する世界観や人物の行動も、テーマではない。
表現された具体物を、モチーフという。
たとえば主役の最後の行動とか、二人の愛とかは、モチーフである。
テーマとは、このモチーフを使って最終的に意味されているもののことだ。


僕は、「最終的に主人公が学んだこと」がテーマだ、
というシンプルなことを定義にしている。
だから主人公には最初、それが欠けている。
ストーリーの体験によって、主人公はそれを獲得したり学習したり、
何かを無意識に出来るようになっている。
主人公は、だから、成長する。
(主人公が成長しない話は、結局なんだったんだろう、という話になりがちだ。
「トレイン・スポッティング」という流行映画を
改めて今見てみると、なんだったんだこれ感がすごい)

最初と最後の主人公を比べ、その差がテーマになっているのが、
僕の定義するよい物語だ。

「俺は○○だと思う」などとテーマを言うのは下手な脚本だ。
それは論文であり、一意の表現に納めなければ気がすまない人だ。
(最も稚拙な例で僕があげるのがキリヤ版「キャシャーン」だ)

上手な脚本は、テーマを感じさせる。
一言もそれに触れなくても、自然に分かるようにモチーフを操作する。
(「埋め込んである」などと作者側から言う)
それは滲み出して、ラストシーンを迎えたとき、
観客である我々が一体になって感じるものであるべきだ。
(なかなかそこまで上手い脚本はすくない。
かの風魔ですらラストに竜魔に言わせてるし)

ここに劇的なカタルシスが重なるから、ストーリーは素晴らしいのだ。

ストーリーの中心は、主人公が冒険によってカタルシスを体験し、
その結果成長し、それがテーマを暗示することだ。
それをはじまり、展開、結末という時間的要素と、
登場人物と人間関係と場所の空間的要素と、
メインストーリーとサブストーリーとの絡みで描くのだ。


そして、脚本とは、そのストーリーを白紙からつくりあげた、
上演可能な形式で書かれた100数ページのことだ。



絵や芝居や音楽は良かったけどストーリーはいまいち(最近激増している)、や、
ストーリーは悪くないけど役者が下手だったり演出がいまいち(内田けんじとか)、や、
ストーリーもその他も糞(山ほどある)、や、
全てが噛み合った最高傑作、などが世の中にはある。
最高傑作を目指すには、脚本の良し悪しが、まともに関係する。
posted by おおおかとしひこ at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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