2014年07月31日

人間ドラマなんて地味じゃないか

かつては僕はそう思っていた。
ドラマより、ロボットとか超能力とか、
凄い世界観とかカンフーのほうが好きで、
復讐劇とか秘密の暴露とか骨肉の争いとか、
ドロドロの修羅場とか悲劇とか喜劇とかに、
たいして興味など持っていなかった。

しかし、自分で書き始めると、
それがいかに面白く、難しいかが分かってくる。


今こつこつと人間ドラマを書いている。
ふと全体が見えたとき、
かつての子供の(中学生ぐらいの)僕が言うのだ。
地味だなあそれ、と。

はぐれ刑事純情派とか、人情ものの地味なドラマは僕は見向きもしなかった。
でもコロンボは好きだった。
ここがポイントだと思う。

「刑事コロンボ」は、犯人が必ず華やかな人、という縛りがある。
社長だったり俳優だったり。
絵的に派手なものをつくれる、ということ、
そして(忙しい)スターを一回きりで使えること、
この二つの利点がその縛りにはあったことが、
大人になってはじめて気づく。
(そもそも日本人じゃなくて派手な外人、というだけでアドバンテージがあったのだが)

例えば人間ドラマでも「ブラック・ジャック」は、
当初は怪奇漫画のジャンルに入っていたように、
奇病と手術のグロ描写がウリだった。
(ついでに、手塚漫画のこれまでのスターが俳優として登場する、
スターシステムがウリでもあった。
当初は過去漫画の世界にそのままブラック・ジャックが出張する話が想定されていたようだが、
俳優という解釈で登場人物の誰かを演ずることになる)

地味ではなく派手。
中身をよく知らない人が、入ってきやすい入口だ。

コロンボにおける華やかな世界、
ブラック・ジャックにおける奇病やスターシステム、
ただの地味な人間ドラマだけで終わらない何かは、
実は必須のものである。
人目を惹く題材を使うのはそのためだ。
題材だけで面白そう、と思わせるためだ。
近年だと、微妙に山岳漫画の流行があった。
山岳を題材に人間ドラマを描く。逆に、人間ドラマに山岳を利用する。

昔から、戦争や貴族社会や猟奇が物語の題材になるのは、
それが理由である。


それを、スターや原作に頼らない、何かを、
我々は用意する必要がある。


人間ドラマなんて地味じゃないか。
それは昔の僕も含む、殆どの人の冷たいリアクションだ。
その目をこちらに向けるインパクトを、
我々は衣として用意しなければならない。

派手なものは間口をひろげる。
中身の人間ドラマは、深い心に達する。
その双方が出来上がっていないと、脚本としてまだまだである。
posted by おおおかとしひこ at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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