かつては僕はそう思っていた。
ドラマより、ロボットとか超能力とか、
凄い世界観とかカンフーのほうが好きで、
復讐劇とか秘密の暴露とか骨肉の争いとか、
ドロドロの修羅場とか悲劇とか喜劇とかに、
たいして興味など持っていなかった。
しかし、自分で書き始めると、
それがいかに面白く、難しいかが分かってくる。
今こつこつと人間ドラマを書いている。
ふと全体が見えたとき、
かつての子供の(中学生ぐらいの)僕が言うのだ。
地味だなあそれ、と。
はぐれ刑事純情派とか、人情ものの地味なドラマは僕は見向きもしなかった。
でもコロンボは好きだった。
ここがポイントだと思う。
「刑事コロンボ」は、犯人が必ず華やかな人、という縛りがある。
社長だったり俳優だったり。
絵的に派手なものをつくれる、ということ、
そして(忙しい)スターを一回きりで使えること、
この二つの利点がその縛りにはあったことが、
大人になってはじめて気づく。
(そもそも日本人じゃなくて派手な外人、というだけでアドバンテージがあったのだが)
例えば人間ドラマでも「ブラック・ジャック」は、
当初は怪奇漫画のジャンルに入っていたように、
奇病と手術のグロ描写がウリだった。
(ついでに、手塚漫画のこれまでのスターが俳優として登場する、
スターシステムがウリでもあった。
当初は過去漫画の世界にそのままブラック・ジャックが出張する話が想定されていたようだが、
俳優という解釈で登場人物の誰かを演ずることになる)
地味ではなく派手。
中身をよく知らない人が、入ってきやすい入口だ。
コロンボにおける華やかな世界、
ブラック・ジャックにおける奇病やスターシステム、
ただの地味な人間ドラマだけで終わらない何かは、
実は必須のものである。
人目を惹く題材を使うのはそのためだ。
題材だけで面白そう、と思わせるためだ。
近年だと、微妙に山岳漫画の流行があった。
山岳を題材に人間ドラマを描く。逆に、人間ドラマに山岳を利用する。
昔から、戦争や貴族社会や猟奇が物語の題材になるのは、
それが理由である。
それを、スターや原作に頼らない、何かを、
我々は用意する必要がある。
人間ドラマなんて地味じゃないか。
それは昔の僕も含む、殆どの人の冷たいリアクションだ。
その目をこちらに向けるインパクトを、
我々は衣として用意しなければならない。
派手なものは間口をひろげる。
中身の人間ドラマは、深い心に達する。
その双方が出来上がっていないと、脚本としてまだまだである。
2014年07月31日
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