僕は、いつも数を書くことをすすめる。
5分を50から100がノルマだ。
長い話でなく短い話をすすめるのは、
完結させる経験を積むためである。
しかし、この数稽古をやったことない人から見ると、
とても不安だろう。
書くことがなくなってしまうのではないかと。
違うのだ。逆説的なのだが、
書くことをなくすために、数を書くのだ。
あなたは、自分の中に強烈な体験や、
他人に聞いてほしい話があるだろう。
それは創作の源のひとつだ。
人生を終えようとするとき、
誰でも長編小説一本は書けるという。
それは、どんな人でも、
一生を生きればそれなりに価値ある体験をするからである。
しかし、よく考えてみよう。
自分の体験を書くことが創作だろうか。
それは、どこかの元ネタのパクりと何が違うのか。
ソースが他人か自分かの違いで、
それは何かを元ネタに何かを書く点では同じだ。
それは、アレンジに過ぎず、
厳密には創作ではないと僕は思う。
自分の体験が強烈で、
それをネタにするやり方なら、
特殊な人生を生きれば生きるほどネタの宝庫ということになる。
(サイバラは、取材と称してわざとヘンテコな体験を積んで、
それを書くという体験型の作家である。最近はそうでもないが)
芸の肥やし、という言葉は、人生で無茶をすればするほど、
その体験が創作の元ネタになる、
という考え方だ。
勿論、刺激的な体験は他の人がしない貴重な経験で、
それを元ネタに書くのは、新しいことが書けることに変わりはない。
僕が数稽古をすすめるのは、
これ以上もう書くことがないところまで、
自分を追い詰めるためだ。
自分の特別な経験、
自分の間接的体験(聞いた話、人の話)を含め、
記憶に残るものを全部吐き出させるためである。
多くの人は、特殊な過去を持っていない。
創作に向かう人は、すべて特殊な過去を持っている訳ではない。
その過去の自分的には特殊だと思っているものが、
他者から見て面白いかどうかをまず見るために、
それをネタに書くとよい。
(使えるならそれをもとにプロでも使えるネタになる)
大抵はそうではないから、
自分が思う特殊な体験を、たいしたことではなかったと認識するために、
自分の体験を、洗いざらい吐き出させるために数を書くのだ。
あとに残るのは燃えカスではない。
空っぽの引き出しである。
空っぽにすることで、はじめて特別なアイデアを格納する場所が出来るのだ。
数を書くことで、
自分の体験と創作を半々に混ぜるなどの技も出来てくる。
数を書くことで、
自分がエネルギーを使わずに書けるのはなにかもわかる。
数を書くことで、
アイデアを全て蔵出しし、
それよりももっと良いアイデアと、比較することが出来る。
蔵出ししたものより良いアイデアだけが、
これ以上書く価値があるアイデアだ、
と自分で判断出来るようになる。
ここではじめて、アイデアノートに意味が出てくる。
蔵出し以上のアイデアを、メモの基準に出来る。
こうやって、あなたの書くものは、徐々にレベルが上がっていく。
あなたの貴重な体験は全部書いてしまえ。
それをネタに書けるものは書いてしまえ。
それが全部なくなってからが、
ようやくほんとうの創作のいばら道のはじまりだ。
2014年08月01日
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