2014年08月01日

数を書くことの意味

僕は、いつも数を書くことをすすめる。
5分を50から100がノルマだ。
長い話でなく短い話をすすめるのは、
完結させる経験を積むためである。

しかし、この数稽古をやったことない人から見ると、
とても不安だろう。
書くことがなくなってしまうのではないかと。

違うのだ。逆説的なのだが、
書くことをなくすために、数を書くのだ。


あなたは、自分の中に強烈な体験や、
他人に聞いてほしい話があるだろう。
それは創作の源のひとつだ。

人生を終えようとするとき、
誰でも長編小説一本は書けるという。
それは、どんな人でも、
一生を生きればそれなりに価値ある体験をするからである。

しかし、よく考えてみよう。
自分の体験を書くことが創作だろうか。
それは、どこかの元ネタのパクりと何が違うのか。
ソースが他人か自分かの違いで、
それは何かを元ネタに何かを書く点では同じだ。
それは、アレンジに過ぎず、
厳密には創作ではないと僕は思う。

自分の体験が強烈で、
それをネタにするやり方なら、
特殊な人生を生きれば生きるほどネタの宝庫ということになる。
(サイバラは、取材と称してわざとヘンテコな体験を積んで、
それを書くという体験型の作家である。最近はそうでもないが)
芸の肥やし、という言葉は、人生で無茶をすればするほど、
その体験が創作の元ネタになる、
という考え方だ。

勿論、刺激的な体験は他の人がしない貴重な経験で、
それを元ネタに書くのは、新しいことが書けることに変わりはない。


僕が数稽古をすすめるのは、
これ以上もう書くことがないところまで、
自分を追い詰めるためだ。
自分の特別な経験、
自分の間接的体験(聞いた話、人の話)を含め、
記憶に残るものを全部吐き出させるためである。

多くの人は、特殊な過去を持っていない。
創作に向かう人は、すべて特殊な過去を持っている訳ではない。
その過去の自分的には特殊だと思っているものが、
他者から見て面白いかどうかをまず見るために、
それをネタに書くとよい。
(使えるならそれをもとにプロでも使えるネタになる)
大抵はそうではないから、
自分が思う特殊な体験を、たいしたことではなかったと認識するために、
自分の体験を、洗いざらい吐き出させるために数を書くのだ。


あとに残るのは燃えカスではない。
空っぽの引き出しである。
空っぽにすることで、はじめて特別なアイデアを格納する場所が出来るのだ。

数を書くことで、
自分の体験と創作を半々に混ぜるなどの技も出来てくる。
数を書くことで、
自分がエネルギーを使わずに書けるのはなにかもわかる。

数を書くことで、
アイデアを全て蔵出しし、
それよりももっと良いアイデアと、比較することが出来る。
蔵出ししたものより良いアイデアだけが、
これ以上書く価値があるアイデアだ、
と自分で判断出来るようになる。

ここではじめて、アイデアノートに意味が出てくる。
蔵出し以上のアイデアを、メモの基準に出来る。

こうやって、あなたの書くものは、徐々にレベルが上がっていく。

あなたの貴重な体験は全部書いてしまえ。
それをネタに書けるものは書いてしまえ。
それが全部なくなってからが、
ようやくほんとうの創作のいばら道のはじまりだ。
posted by おおおかとしひこ at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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