2014年08月14日

こういう取り上げ方はやめた方がいいのではないか

「○○を通じて、△△や□□を描く(浮き彫りにする)」
という紹介の仕方。
○○には映画内の具体的な売りシーン、
△△にはテーマらしきものを入れるテンプレ。
(愛とかヒューマニズムとか、名詞が入る)

何度か触れているが、それはストーリーの本質を捉えていない書き方だ。


そこが「面白さ」ではない。


この話が面白そうだぞ、というのは、
主人公が陥ったシチュエーションとセンタークエスチョンで書かれるべきだ。

「○○に陥った主人公が、△△しようとする話」というテンプレだ。
それは、第一幕の要約でもある。

または、「○○などのような大騒ぎ、大冒険」でもよい。
これは、第二幕の作品コンセプトに当たる部分だ。

「○○を通じて、△△や□□を描く」というテンプレは、
三幕まで見終えたときの要約に過ぎず、
それは大きく言えばネタバレであり、
「楽しみにさせる部分」であってはいけないと思う。
それは、作品を見ることを、答えあわせをすることに堕してしまう。


それは、結末の理解を見る前に押しつける行為だ。
作品の評論としてならまだ分かる。
いい加減マスコミの映画担当は、もっと勉強すべきではないかと思う。
物語の面白さを、うまく表現する方法を。
「こうだから面白い」という表現を、
出演者と原作以外の部分で表現するべきである。
観客は出演者を見に行くのではない。
観客は原作を見に行くのではない。
面白いおはなしを見に行くのだ。


「主演○○なのにこけたのは何故か」は愚問中の愚問だ。
人気に陰りが出たからな訳ない。
詰まらなかったからに決まってるではないか。
詰まらないもののときにぼかして他方面とのしがらみを調整するのは、
大人としてわかる。
が、いざ面白い話の時に、
きちんと「面白いストーリー」だと表現する力が、
もはやマスコミにないのではないのか。
(最初からないのかも知れないが)

しかし、映画会社のプレス用原稿がすでにこうなっていたりして、
僕は絶望を感じることがある。
宣伝担当のプレス用原稿の文章を公式見解として、
そのままコピペするマスコミもマスコミだが。


勿論、お話というものは、結末まで見てはじめて意味があるものだ。
そのよさを、ネタバレなしに伝えられるのならそれに越したことはない。

が、それと誘引することはまた別なのだということを知るとよい。
「最後まで見れば分かるから、とにかく見てみて」は、
「騙されたと思って買って」という広告として最低の方法論と同じだ。
騙されたと思って買う人などいない。
良さそうだと思って買うのだ。
広告で、良さそうと思わせなければいけないのだ。

そのためには、
第一幕での面白いシチュエーションとセンタークエスチョン、
第二幕でのオリジナリティー溢れる作品コンセプトが、
揃っていなけらばならないのだ。
もしあなたの脚本にそれがないのなら、
アホな宣伝部や、アホなマスコミに、別のことを宣伝されてしまうだろう。


具体例を。
僕がよくあげるのは、ジュラシック・パークだ。
「恐竜島からの脱出劇を通じて、人間を描く」
なんてテンプレは駄目だ。
「遺伝子操作によって恐竜を甦らせ、生きた恐竜のテーマパークが出来た。
しかし嵐がその島を襲い、制御装置が壊れてしまう。
そこに観光客が閉じ込められているのに…」
または、
「恐竜を甦らせたテーマパークからの脱出劇。
甦らせた色々な時代の色々な恐竜が襲ってくる!」
である。
これに付帯情報として、
恐竜の新しい表現方法としてのCGの初の本格使用、
モンスターと人間の対決の名手スピルバーグ監督、
などがついてくるに過ぎない。

どんなスターだろうが、どんな原作だろうが、
もはや関係がない。


自作品の例を。

ドラマ「風魔の小次郎」の場合。
「聖剣奪取も絡んだ忍者同士の激しいバトルを通じて、
新しい忍のあり方を模索する」は、駄目なテンプレだ。

「白凰学院のライバル校、誠士館の活躍には裏があった。
忍びを使っているのだという。白凰学院の総長代理、
北条姫子は、風魔の忍びに助けを求める」
または、
「白凰学院とライバル校誠士館の、表面上の対決の裏では、
激しい忍び同士のバトルが!
風魔一族対夜叉一族の戦いとドラマ!」
がよい。

これを一言で示したキャッチコピーが、「学園忍者アクション」だ。
ドラマのB級感とも相まって、なかなかの出来だと思う。
(たしか山中さんのコピーじゃなかったか。
彼は他にも「バトル、時々メルヘン」なんて素敵なコピーを書いていた)
僕なら、「部活対決の裏では、忍者が闘っているのです。」にするかな。


映画「いけちゃんとぼく」の場合。
(この宣伝が最低だったのは、僕は何度か書いている)

「少年とオバケのいけちゃんの交流」は駄目だ。
「友情物語と見せて、実は愛情物語」も駄目だ。
「少年とオバケのいけちゃんの冒険を通じて、ひと夏の成長を描く」も駄目だ。

「少年にだけみえるオバケのいけちゃん。
少年はいじめられている。ところがある日、父が死んだ。
人より早く、彼は大人にならなければならない。あいつらに、勝つんだ」
あたりか、
「いじめを克服するための、少年といけちゃんのひと夏の冒険。
秘密基地、女の子、あいつを殴った日」
などだろう。

一言で示すキャッチコピーについては、
既にぼくの書いたものはいくつか示した。
「少年は、その夏に大人になる。」
「その角を曲がったら、いけちゃんは消えていた。」
「ありがとう。あいしてる。」
などだ。

ネタバレを書くのは最低だと思う。
入り口を示すべきで出口を示すべきではない。
(あまりに怒って何も言えなかったのだが、
「『余命一ヶ月の花嫁』はネタバレしているから、
この映画でもネタバレしてよい」という宣伝部の開き直りだ。
今思い出しても、物語を大切にしていないことに腹が立つ)

当時の宣伝部のやったことは、記録で分かると思うのでここでは繰り返さない。
僕は予告編もポスターもパンフレットも宣伝部の原稿も、
ノーチェックで公開され、僕のトラウマとなっていることだけは書いておく。
また、トップシーンに墓のシーンを入れることは、今でも反対である。
posted by おおおかとしひこ at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック