2014年08月04日

不在の在

昔からヒッチコックが苦手だ。
人間の暗部の描き方や、緻密なプロットが、
イギリス人的なねちっこい変態性があるからかも知れない。
同じくイギリス人のキューブリックはその論理性が好きだったりするのだが。

「レベッカ」をようやく見た。
レベッカは既に死んだ女の名だ。
だから画面には一切出てこない。
しかし登場人物は全てレベッカの名を口にする。
存在しないからこそ、想像の中でレベッカの像が巨大に膨らんでいく。
この手を使った最初の映画かどうかは不明だが、
その巧みさが、この映画の本質だ。

(以下ネタバレ)


ちょっと調べて分かったのだが、
主人公に役名がないのだそうだ。
一度も彼女は名前を呼ばれることがないように、
巧みに作劇されているのだという。
(結婚後は奥様やミセス・ドウィンターと呼ばれる)

名前だけで姿を現さないレベッカと、
姿形や行動はあるのに、名前のない主人公を、
意図的に対比しているのである。
この構成が巧みだ。

名前というのは一種の呪術だ。
ふわふわとしてとらえどころのないものが、
名前をつけただけで、概念となる。
具体的姿を持たない概念は、
人々の間で共通して扱うことが出来るが、
しかし各人の中の概念が全く同じものである保証はない。
(クオリアの話みたいなこと)
だから、言葉による概念は、形をもったふりをした、
実は正体不明のものなのだ。
レベッカは、その概念である。
それが亡霊のように、主人公にプレッシャーをかけ続けるのだ。

そこまで分かってからこの物語を組んだかどうかは不明だ。
ただ不気味なことを考えているうちに、
死者に影響を与え続けられている不気味な屋敷に、
何も知らないまま嫁ぐ、というアイデアから出来上がったかも知れない。

女流作家原作ならではの、
「おばさんの醜さ」が気持ち悪い。
メイドのおばさんに関しては、レズビアン的な不気味さ、怖さすらある。
(同性の闇やえげつなさを深く書き、異性のそれは書かないというのは、
世界共通の特徴のようだ)
そういえばサイコでも、こええババアを描いていたなあ。


恐怖というのは、
客観的にではなく主観的に存在すると思う。
恐怖は個人の中で勝手に膨れ上がる。
とりわけ主人公の中で、その目を通じて世界を体験している、
我々観客の中で。

従って、一人称が最も恐怖には効果的だ。
主人公に名がないことは、これを暗示する。
あくまで「わたし」の体験であり、
名前のある誰か他の人の体験ではないのだ。
「わたし」は特別なヒーローであってはならず、
観客の視点の邪魔になるような人間であってはならないのだ。
豪華屋敷マンダレイの世界へおずおずと入るような人間でなれけばならないのだ。

従って、演出もすべて主人公の主観ショットが中心となる。
彼女の主観移動(または彼女とともに前へ進む移動ショット)が多用され、
また、レベッカの部屋のシーンでは、
部屋全景のフルショットは意図的に撮っていないのだそうだ。
全てが部分的ショットの集合で、わざと全部が把握出来ないようにしてある。
同様に、屋敷の図面なしで全てのセットをつくったという。
それも、屋敷の全部を把握させない、迷路のようなつくりに錯覚させるためだ。
(ついついカリオストロの城を思い出す。迷路のような屋敷は面白いねえ)
また、壁に常に何かの影が大きく落ちているライティングも特徴的だ。
サスペンスの常套、白黒映画ライティングの常套であるが、
白い壁一面にせず、常に(たとえ不自然でも)複雑な影を落とす表現だ。
「決して全てが見えているわけではない」ことが、
主観的体験を増幅するのである。

これらのどこにでもRのイニシャルが刻まれる。
まるで亡霊に監視されているかのように。
(メイドの歩く芝居をわざと撮っていないのは有名)

これらは全て、主人公の中に恐怖を増幅させるためだ。
ふつう、ウギャー!というシーンでそれが昇華するのがホラーの常套だが、
それをしないところがこの映画の凄いところ。
恐怖は主人公の中で、観客の中で増幅しつづける。

これらは油絵の中の先祖の衣装に仮装する場面で、ピークに達する。
二階、階段、踊り場、一階、と全てで彼女は衣装を見てほしいと思いながら降りてくる過程と、
暖炉に向かって談笑する背中のカットバックでじらすのが上手い。
ついに振り向いた親戚たちは、驚くのだ。
素敵な衣装というリアクションではなく、「レベッカ…」と。
これがホラー映画のウギャー!にあたるカットだ。
不在の在であったレベッカが、急に受肉する。
最もわたしが誉められたい文脈で、自分自身に。
この女的恐怖。
(僕は黄金期のジャンプで育ったような人間だから、
少女漫画をこういうとき思い出す)

不在の在であるレベッカが、在になる。
衣装という具体物でだ。
このあとの第二ターニングポイント、夫の殺人の告白以降、
対応を考え出す主人公が、急に大人になる。
レベッカの幻影は消え、主人公が我を持つようになるのだ。
ここから一人称は消え、三人称映画的な文法となる。
概念だけのレベッカが、死体という具体物になった瞬間、
レベッカと主人公の関係が変わるのだ。


不在の在で言うと、近年では「桐島、部活やめるってよ」の、
桐島というマクガフィンがあった。
桐島はマクガフィンなので、それ自身が変化したりすることはない。
一方、レベッカは、不在の在から受肉し、
それが故に概念から具体物に落ちるという過程がある。
変化を描くことがストーリーである、
という僕の説によれば、レベッカの方に断然軍配があがる。


不在の在は、いつか概念から具体物に堕する。
この運命を描くのも、映画である。



ちなみに、レベッカは、今の基準でみると、
前半がたるい。出会いから結婚まで10分ぐらいでいいんじゃないかと思う。
(あるいはもう少し伏線を引いてもよいだろう)
近代脚本術の前の脚本であることを注意されたい。
これらの経験を経て、
第一幕という理論的研究がなされたということだ。

また、この脚本は、原作小説のなるべく忠実な映画化、
というミッションの元に書かれたらしい。
小説では進行する場面でも、映画ではおかしな進行になる場面が多々ある。

前半の出会いから結婚まで、
姉夫婦とのこと、
海のそばの小屋のくだり、
花火が上がったあとの霧の場面、
夫の殺人の告白(部屋の中でほぼワンカット)、
などは、もう少し映画的な進行にするべきだと思う。

証言だけで進み、絵を出さないのも小説の特徴だが、
ヒッチコックはこれを逆に利用してはいる。
小説と映画の違いについて、研究すべき材料かも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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