不思議なことだけど、
簡単な手がかりがある。
「これは映画だ」と思っているからだと思う。
演技には、思いきりが必要である。
早稲田の演劇部の伝統では、全裸で交番の前を走ったり、
人生で最も恥ずかしかったことを皆の前で告白する会があるという。
(今でもそうかは不明)
恥ずかしがったり躊躇したり、緊張したりすることは、
演技には敵である。
演技をするまずはじめに大事なことは、
思いきることである。
どんなに笑われようが、後ろ指さされようが、
思いきったことの結果であり、それを甘んじて受ける覚悟が必要だ。
それをブレーキに思いきれないのは二流だ。
一流は、ためらいなく崖に飛び込む。
(僕は現場で、編集するからダメな所は使わない、と安心させることがよくある。
みっともないところを見せたがらないのは人の自然である)
思いきってからが、ようやく技術の出番だ。
ただ思いきって赤ん坊のように振る舞うのは演技ではない。
それは素人の開き直りにすぎない。
(それがときにプロを凌駕することはあるけど)
思いきる一番本質的なことは、
これは映画だ、と思うことだと思う。
面白い映画の一場面、と思えば何だって出来る。
だってこれは他人という幻であり、本人ではないからだ。
(逆に、台本がないと役者は何も出来ない。
村井がアドリブが下手なのでは、という僕の予想は、
村井が純粋に役者だからだ)
二流の役者は、見え方を気にする。
この角度がカッコイイとか、このポーズがカッコイイとか、
役ではなく本人の評価を気にする。
そんな芝居は二流だ。
かっこよく見て欲しいという欲望が鼻につく。
スペースバトルシップヤマトの、キムタク古代を思いだそう。
なにあの鼻ピン。
この人物は今どういう文脈で何をしようとしていて、
その抵抗は何か、その内面はどうかをきちんと含むことが大事で、
見え方がカッコイイかどうかは二の次である。
どうせ俳優は元からカッコイイから、何したってカッコイイから安心してればいいのに。
ヤマトに戻ると、そのように台本が書かれていないから、
キムタクはいつものキムタクを演じることしか出来ないのだ。
そこに古代進という人間が書かれていなければ、
それを演じるという思い切りは出来ず、
いつもの受けている俺、に俳優を閉じ籠らせてしまうだろう。
いつもの感じの芝居しかないダメ映画は、
それを演じる役者がボンクラか、
その芝居をつけた監督がボンクラか、
その役が書いてある脚本がボンクラかのどれかだ。
そして大抵、三番目が最もあり得る理由だ。
これは映画だ、そう思って思いきって書かれていない脚本を、
これは映画だ、と役者が思いきることは出来ない。
当たり前だが、脚本とは、役者と一心同体だ。
2014年08月06日
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