今日、言葉になった。
魂の燃焼のことだ。
人は、魂の燃焼を楽しみ、よい燃焼を素晴らしいと思うのだ。
毎年8/9は僕の大事な人の命日で、
その人が激誉めしてた実写「風魔の小次郎」を、
前日夜中から朝にかけて、全話一気に見る供養をしている。
しばらくマイDVDを貸していて脳内上映だったので、
見たのは三年ぶりだ。
あらためて、傑作だと思った。
もちろん、今の俺が直したい所は沢山ある。
今回は編集のテンポが気になった。当時使っていた編集理論と今の俺は異なる。
もっと間が欲しい所が沢山出てきた。
当時は勿体なくて切れなかった台詞も、今なら間の為に切れる。
撮影のやり方も気になった。リアクションショットを撮っとくべきだった。
シリーズ構成も気になった。もう二話ぐらい欲しいと思った。
2クールだったら最高だった。
もっともっとオリジナル部分を見ていたかった。
でも傑作だ。
ようやく、他人のつくったものとして見れた。
生涯見たドラマのトップ3に入る大傑作だ。
(あと二本は「眠れる森」「スケバン刑事2」かな)
そして、分かったのだ。
芸術とは何かが。
作者(や関わる表現者すべて)の、
「これが素晴らしいんだ」ということを表現していることの、
魂の燃焼を味わうことが、芸術だと思う。
過去の俺は本気で面白いと思ってつくっていて、
役者は本気で面白いと思って演じていて、
撮影部も照明部も美術部も編集部もCG部も、
演出部も制作部も、勿論原作者も、
本気で面白いと思ってつくっている。
その「面白い」を冷静に分析したうえで、
それを表現することに魂を燃焼させている。
それは永遠に二度とない、一度きりの、
魂が光かがやく瞬間なのだ。
村井小次郎も、川久保武蔵も、川原姫子も、亜弓蘭子も、
その瞬間魂の燃焼の光を放っていた。
その脚本を書きコンテを書き撮影をし編集をした、
過去の俺の魂が燃焼しまくっていた。
それが面白かった。
物語は、
興業製品のようにパーツの取り替えが効くものではなく、
投資家の政治の道具ではなく、
我々観客が夢中になり拍手喝采をすべき、
芸術である。
そうであるならば、
それは都合や仕事だから、が1ミリも入る隙があってはならない、
「これが面白い」という魂が燃焼していなければならない。
いやあ、風魔ファンの気持ちがようやく分かった。
このドラマ滅茶苦茶いいわ。何で知られてないんだこれ。
2014年08月09日
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