脚本を書くときは、客観的になることはいいことだ。
一方的な見方を防ぎ、
ご都合主義を防ぎ、
これ変だろ、に気づかせ、
自分と遠い人がこれをどう見るかを考えさせ、
興行上、映画史における立ち位置を正しく見させる。
しかし、本当の意味では客観性は保てない。
そんな冷静に書かれても、それは芸術ではないからだ。
面白い話は、プロットで既に熱を持っている。
この話を世に出してくれ、という魂が、
生まれさせてくれという意志が既にある。
目利きは、この段階で既に熱を感じることができる。
面白い話になりそうだ、というだけでなく、
作者もスタッフも役者も、魂を燃焼させられそうなもの、
という匂いを感じとることができる。
あなたがプロットを書き終えたとき、
それを他人の熱情の表現と見る客観性は、
あればあっただけよい。
その客観性は、最低みっつの目が必要だ。
あなたと似た感性を持つ人が、巻き込まれていく面白さになっているかどうか、
という目と、
あなたのことを嫌いな人が、この面白さに気づき、興味を持ち、
のまれてゆき、熱狂する面白さになっているかどうか、という目と、
無関心の人を、同じくそうさせる力があるか、という目だ。
それは芸能人や大量宣伝に頼ることなく、
脚本の力だけで、という冷静さでの判断だ。
世の中には、
あなたのことを好きな人はほんの一握りで、
あなたのことを嫌いな人もほんの一握りで、
あなたのことを全く知らない人が60億ぐらいいる。
それらの人を何人面白がらせる話になっているかを、
想像する必要がある。
それらの人がこの話をどう思うかを、想像する必要がある。
デートに来ていく服が、
あなたのことを好きな人にも、
あなたのことを嫌いな人にも、
あなたのことを全く知らない60億人にも、
いいと思わせる服を着ていくことが出来るだろうか。
あなたがかなりの美景で、服のセンスが凄くて、
それなりに準備すれば出来るかも知れない。
それを服ではなく、脚本でやるのがあなたの仕事だ。
そのつもりで、
なるべくなるべく冷静に、客観的に、他人の目で見る訓練は必要だ。
自分の写っている写真を見て下す判断ぐらい、
難しいものはない。
どれくらい恥ずかしいのか、どれくらいイケテるのか、
どれくらい欠点を見られてるのか、どれくらいその欠点は気にされてないのか、
どれくらい別の欠点を人は見ているのか、
どれくらい別のいいところを人は見ているのか、
知ることは重要だ。
写真は点であり脚本は線だから、ますます話は複雑になる。
実は客観は、全能ではない。
全ての人は、部分でしかものを見れない。
自分の限界があり、自分の好みがあり、
自分の見てるところと見てないところがバラバラである。
(そして評論家とはなるべくその片寄りを減らそうと努める人のことだ)
他人に意見を求めることの難しさはそこにある。
他人は全能ではないし、
全ての観客の総意が正しい客観でもないのだ。
絶対客観はあるのか、みたいな哲学の話だ。
少なくとも、
物語の評価というものを全能の視点から見れる人は、
余程の評論家でない限り出来ないだろう。
その視点から見る訓練は、かなり難しい。
出来てると思っても、完璧には出来ない。
実写「風魔の小次郎」全話に降臨している魂の燃焼に、
ようやく客観的になれた。
7年だ。それくらい経って、素晴らしさが分かった。
面白さに客観的になれた。
内容の面白さに、普通に笑ったり泣いたり、憧れたり、ぐいぐい入り込むことができた。
風魔でもそんなものだから、
他でもそれぐらいなのは、しょうがない。
(ようやく言えるわ。4話がつまらんわ。
1、2話でよくも悪くもある種の度肝を抜き、3話で変化球を投げたが4話で滑った。
が、5話以降は全てが噛み合っていく奇跡の面白さだと、冷静に見れた。
そこからどんどん面白くなっていく。
5話より6話、6話より7話…と次々に良くなっていくドラマなんて、滅多にない。
そして最高だと思う頃にはもう終わらなければいけないという、
なんと辛い別れか)
ただしそれは、客観的になれないことの免罪符ではない。
自分の客観性が、それぐらい曇ることを覚悟せよ、
ということである。
客観性にはふたつある。
欠点に気づく目と、長所に気づく目だ。
初心者はどっちもない。あるいは長所しか見ていない。
中級者は欠点ばかり気づくようになる。
わずかばかりの長所に気づき、それだけを頼りに、欠点を直す。
上級者は、長所を信じて、その周りになにもかも集約させていく。
(ちなみに駄目な大御所は、他人にやらせて文句をいい、
いいと思ったものだけを切り貼りする。それが客観だと思っている)
風魔のときの僕は、中級者だった。
冷静さをやや欠いた、前のめりの中級者だった。
今は上級者への階段が見えた、ぐらいだと思う。
完全な客観性なんてない。
それにはふたつの意味がある。
そう思って努力せよ、と思うことと、
客観的に冷静になれないほど、魂を燃焼させるほどのものを書け、
ということだ。
2014年08月09日
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