2014年08月10日

ゴジラに足りないもの

ハリウッド版ゴジラをようやく見れた。
クローバーフィールド以来、バトルシップやパシフィックリムなどの、
CGの集大成だ。
「(金さえかければ)もう出来ない映像はない」と言わせるレベルの出来だった。
ロサンゼルス決戦やPOV映画などの手持ち主観表現とも相まって、
いわゆる体感型の映像としても、これを越える映像表現は今後しばらくないだろう。

しかし、それと同時にむなしくなるのである。
ストーリーのなさにである。
(まだロサンゼルス決戦のほうが、USA万歳というストーリーがあった)


事件の段取りはある。
ムトー(敵怪獣)とゴジラが上陸することと、
核爆弾の解除ストーリーだ。←ダークナイトライジングといい、これ流行ってんのか?

主役は二人いて、大きなストーリーラインは二本ある。
若い軍人と芹沢博士だ。
彼らは事件解決に奔走するが、
それは事件解決の段取りをこなしているにすぎず、
それは映画的な意味でのストーリーと呼べるものではない。

逆に考えてしまう。ストーリーってなんだろうか、と。


根本にもどろう。
この映画のテーマは何だろう。

僕は、「主人公がこの全体を通じて学んだこと」と定義している。
この映画にそれはあったか。
否だ。

軍人は、巻き込まれながら、妻と子のもとへ帰還しただけであり、
芹沢博士は、自説の生きる証明を目撃しただけだ。
「よかったね」と言える出来事は、
物凄い嵐のように表現されている。
しかし嵐の過ぎ去ったとき、
彼らがそれを通して学んだこと、
欠落への渇きを埋めることは、
なにひとつないのだ。

軍人には、変人と思われた父が正しかった、
という過去の解消があるが、
それは彼が全体で学んだことではない。
彼には内的問題もなく、
それが仮に父への誤解だとしても、
映画全体を通じて父との絆を再回復する話でもない。
クライマックスの彼の行動が、父とのわだかまりを解決する行動にも、
勿論なっていない。
彼の動機は無事妻子に会うことであり、
それを満たす過程で彼の内的成長はなんらなされていない。

芹沢博士に関しては、ただ目をむいてリアクション顔をしてるに過ぎなかった。
世間に信じられないマッドサイエンティストが、
自説の正しさを証明して世間に認められる
(例えばロッキーのような)話でも、勿論なかった。


つまり、ゴジラに欠けていたのは人間ドラマだ。
怪獣映画というのは、
ディザスタームービーなのだなあ、と見ながら思っていた。

災害映画では、離婚した夫婦が絆を再取り戻したりするような、
絆の再確認ドラマがつきものだ。
そのパターンもなく、新しいパターンの人間ドラマもなかった。

「嵐が来て、去っていった」という話と、本質は同じだ。
ただその嵐が凄いCGだっただけだ。


小さな人間はなかなかよく描けていた。
スクールバスの黒人運転手はナイス判断だし、
聖書を読むところから始まる降下シーンは、
鳥肌ものだった。
しかしそれはワンシーンであり、映画全体を通じた話ではない。



なんだろうね。
「起こっていることを追っかける」ことは、
それがどんな凄い、珍しい、リアルな映像だとしても、
それはストーリーにならないんだね。
記録映画なら分かる。
それは現実にあったこと、という意味がある。
「架空世界であったことの記録映画」は、
存在の意味がないんだね。

凄いクローバーフィールドに過ぎなかった、
という僕の印象は、そういうことだと思う。


映画とは、ストーリーが主軸だ。
テーマがある。
なにかが欠けた主人公が、ストーリー全体の冒険を通して、
自分に足りなかったなにかを学ぶ。
それがテーマになる。

ゴジラのテーマは、何?
自然は人間のちっぽけな考えなど超越した、
神々に属するものだ、ということ?
だとしたら、主人公はそれを全否定するところからはじまり、
(無神論者や科学万能主義で独善的)
ゴジラという神に出会い、考え方を変えるラストである必要がある。

そういう話でもなかったし、
そんな話が面白いとも思えない。
(神に帰依する、という話になるし)


無論、オリジナルの東宝ゴジラには明確なテーマがあった。
科学万能への警鐘である。
人間中心主義への批判である。
第二第三のゴジラを生まないことが人類の使命ではないか、
ということがテーマだ。
それはその時代でない現代には意味がない。
だから、新しいテーマを決めるべきだった。


ゴジラに足りないもの。
それは圧倒的な人間ドラマが書かれた脚本だ。
この脚本には、嵐の段取りだけは実に細かく、
よく描写されていた。
しかし、一行も人間ドラマが書かれておらず、
従って変化や成長や、
最も大事なテーマが書かれていなかった。
(311や911の体験によって、
我々は人間の小ささや愚かさを知ったはずだ。
それを更新するなにかでもなかった)

旅を終えたとき、人は変わる。
嵐が過ぎ去っただけなら、人は日常に戻る。

映画とは前者のことで、ゴジラは後者だった。


脚本家たちよ、今こそ立ち上がれ。
映像だけに限れば、もはや出来ないことはない。
あとは、面白い人間ドラマだけなのだ。
それはハリウッドとて同じだ。
今こそ、テーマの面白い、面白いストーリーの出番である。
その書き方は、このブログの深いところにある。
posted by おおおかとしひこ at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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