2014年08月11日

映画とは、空騒ぎではない

るろうにもゴジラも、単なるアトラクション映画だった。
すごいSFXショウだ。
片や怪獣プロレス、片やスピードチャンバラ、
大金を投入した大騒ぎだ。

しかし僕には、それが空騒ぎに見えた。
で、なんの意味があるんだっけ?と、考えてしまう。
いい映画を見たときに感じる、いいものを見た、
という感覚が殆どゼロなのだ。

僕は、人間ドラマの圧倒的不足だと思う。
逆に人間ドラマとは何だろう、ということを、
空騒ぎをキーワードに考えてみよう。


デジタル大辞泉によると、

から‐さわぎ【空騒ぎ】
[名](スル)たいしたことではないのに、やたらに騒ぎたてること。
また、騒いだわりに実りのないこと。「マスコミの―に終わる」

である。

たいしたことでないのに騒ぐのは、
滑ってる映画によくあることだ。

何でこの人たちは、必死で何かをやってるんだろう、
とどこかでさめてしまうものはこれだ。
どこかでどうでもいいわ、と思うものは、感情移入が途切れた証拠だ。

感情移入というのは、本当に難しい。
少なくとも主人公には、はじめのほうから終わりまで、
感情移入が途切れてはならない。
どこかで飽きたり、どうでもよくなってはならない。
どうやるかはおいといて、
それが途切れると、映画は滑りだす。
(途中で他のキャラにより感情移入するのはまれによくある)

映画の中のテンションと、我々観客のテンションがずれていくのだ。

スクリーンの中で必死で何かやればやるほど、
我々観客は、どうでもよくなる。
本来、中の人のテンションと我々のテンションが一致することが映画だ。
それが滑ると、我々には空騒ぎに見える。



最近、感情移入を伴わずにテンションを引っ張る技が増えてきた。
POV型の流行だ。
POVとは、その人の見た光景をカメラがうつすこと、の意味で、
ストーリーというより、ドキュメントっぽい撮り方を総称して言う。

ストーリーには、初期設定や物語の立ち上がりに暖気が必要だが、
ドキュメントっぽいものには、
事件に巻き込まれるその人から見た光景に、
同時に観客も巻き込むことができる。

ハナからドキドキさせ、驚かせ、この先どうなるのだろう、
というツカミには最適の手法だ。
主人公への感情移入はこのときゼロだ。
感情移入というより、観客が疑似体験として、
スクリーンの中の世界に放り込まれているからだ。

ここから主人公を立てていくと、むしろ邪魔になる。
観客は感情移入でなく、リアリティーのある疑似体験として世界のなかにいる。

これはゲームの考え方だ。
ドラクエで主人公に台詞がないことは有名だ。
疑似体験するときには、主人公に色があってはプレイの邪魔だからだ。
プレイはあくまでプレイヤーのものだからだ。
AV男優が自分のキャラを出すべきでないという経験則も同じである。
(FFでは主人公が喋り、余計なことを言うな、とよくドラクエと比較されたものだ。
チャラチャラ喋るAV男優は、我々の勃起の邪魔である)

つまりPOVの考え方は、
事件のリアルな追体験であり、感情移入とは異なることに注意されたい。
ゴジラは、それを理解している。
主人公の軍人は、実は感情移入を廃するようにつくられている。
(としか考えられない)
名前を覚えられなかったのもその傍証だ。(フォードらしい。アメリカを代表する名ではある)
わざと個性も、(父以外の)彼自身のバックストーリーも、
削がれているとしか思えない。
何故か。ゲームの主人公にするためなのだ。

ゴジラは、騒ぎのスケールは素晴らしく、
その軍人の目を通した追体験としての疑似体験は素晴らしい。
しかしそれはある種のライドに乗っているだけだ。
体感、体験はするが、
それは終わったらああ楽しかった、というレベルの娯楽であり、
それは単なる空騒ぎなのだ。

遊園地やテーマパークの、純粋に楽しませて、
楽しかったという記憶を残すものならば、
それが使命であるともいえる。

だが、僕は映画はそうであってはいけないと思う。
勿論、娯楽要素はとても大事だ。
だが、テーマパークに映画がなってしまってはダメだと思う。

映画は娯楽であり、かつ文学であるべきだと思う。
単なる文学だけでもなく、単なるライドでもない、
両方を兼ね備えるべきだと思う。
それが、映画がライドや文学と違うところだと思う。


ゴジラは空騒ぎである。
前の記事で僕は単なる台風だと書いた。
嵐の前後で、人は何も変わっていない。
辞書の定義の後半、「騒いだわりに実りのない」状況である。


人は、騒ぐからには、それに価値があったと思いたいのだ。
命をかけ、危険をクリアし、誰かを助け、誰かは死に、
色々失ったけど生き延びて嵐は去ったことに、
何かの意味を見いだしたいのである。

たとえば311が我々をただ悲劇にしただけでなく、
そこで見た日本人の優しさを垣間見て、
日本は捨てたものじゃない、日本はこの優しさがある限り復興出来る、
と、311も悪いだけじゃなく、この優しさを見る機会になった、
のような「意味」を見いだしたいのである。

ゴジラはなんとか(結果的に)撃退できた、
それは我々の結束力のおかげだ(USA万歳。これはロサンゼルス大決戦の場合)、
あるいは、今撃退出来たとしても、人類が核に頼り反省しない限り、
同じ悲劇は繰り返される(東宝初代ゴジラ)、
などの、意味を見いだしたいのである。

苦労して騒いで、それが意味がなかった、と思いたくないのである。

キリスト教における、
自らの苦難を、神の与えた試練だと思うことも同じだ。
ただ辛い目に会うことの理不尽を、神や運命と考え、成長の糧とする、
という、意味を見いだしたいのである。

(この意味を見いだしたいという心理は、科学的に検証されている。
フェスティンガーの認知的不協和理論がそれだ。興味があれば調べてください)



遊園地やライドは、意味を見いださなくてもいい。
むしろ意味を忘れるために、お金を払いにいくのだ。

東宝初代ゴジラは、少なくともライドではなく、
映画だった。
ハリウッドがそれをライドに貶めたのだ。


環境への過信が環境に仕返しされる、というテーマ性は、
エコの浸透した現代では陳腐だから、
さらに現代では踏み込んだテーマ性を考えるべきだった。

福島の原発問題、隠蔽を揶揄するような表現は、
匂わせるだけでテーマにもならなかった。
むしろ垂れ流してしまった放射能を、怪獣が浄化してくれるという、
妄想に尻拭いさせる、最悪な道を選んでいた。


さて、るろうにライドである。
チャンバラは面白かったが、これも空騒ぎだ。
志々雄の京都大火作戦が囮?という肩透かしも含めて、空騒ぎだ。
完結編と含めて前後編だが、空騒ぎして続いただけだ。
これは映画の格ではない。
(おそらく、完結しても空騒ぎだろう。
まあ、GANTZよりは圧倒的にいい空騒ぎだが)


さて、では映画とはなんなのか。

大騒ぎである。
そして、大騒ぎが決着がついたときに、
実りがあるもののことを言う。
それに意味があったと思うことだ。


ハリウッド映画で、何故キスで終わるのが定番なのか。
この大騒ぎは二人の出会いという実りをもたらした、
という結論になり、少なくとも実りがあるエンドにするためだ。

この騒ぎに一体なんの意味があったの?
という問いに、
男女の出会い、という意味があった、と堂々と答えているのである。
勿論、安易にまたかよ、というのはある。
しかし、意味のなかった空騒ぎよりは、意味がある分上等だ。

更に上等なのは、よくあるパターン以外の、
新しい意味や実りを感じさせることだ。
(つまり困ったらキスをさせるとよい。
るろうにのラストが、剣心と薫のキスで終われば、
一応意味があったというラストになる。さて、この陳腐なアイデアを越えてくれるよね?)



日本人は、教訓話が好きだ。
ある騒ぎを起こして決着がついたら、
これで我々は○○を教訓とすべきである、
と事件を記憶する。
意味や実りは、そのようなものでも構わない。

あるいは、全く新しい考え方を伝えることでもよい。
啓蒙だ。
「ジュラシック・パーク」がゴジラより優れているところは、
「恐竜だけの島が、まだどこかにあって、
そこに人が二度といかない」という妄想を、終わったあとにも掻き立てることだ。
恐竜という絶滅した生態系への、それは我々のロマンのようなものがあるのだ。
そのロマンが、紙一重で単なるライドではない、
スピルバーグの映画たりえる部分だ。

その他、テーマとは何か、それをどうつくればいいかに関しては、
過去に沢山書いているので参考にされたい。



映画は空騒ぎではない。
結果的に意味のあった、騒ぎである。
posted by おおおかとしひこ at 13:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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