2014年08月11日

映画とは、騒ぎで決断して意味をなすことだ

最近書いた、映画とは、を合成してみた。
両者が融合すると、より分かりやすくなった。


映画とは、なにかの騒ぎのことである。
事件でもいい。
それは、一人にだけ起こるのではなく、
最終的には誰か、周囲の人、世間などを巻き込む。
(セカイ系において、主人公とヒロインだけがあり、次に世界の興亡が取りざたされ、
間にあるべき世間がないのは、作者が世間に出ていない引きこもりだからだ)

その騒ぎは様々な人を巻き込み、最終的には終結する。
(その騒ぎの最初を異物との出会い、と定義したのが異物論だ)


騒ぎをおさめる最中、あるいは騒ぎを逆に起こす最中、
それらに関わる人々は、重要な決断をする。
あとに引き返せない、リスクとリターンと責任を伴う、腹を決め、行動にうつす、
決断である。

その決断と行動の結果、次々に事態は変わってゆく。
その複数の絡み合いこそが、ストーリーである。


さて、その決断の結果、何かの意味があったかどうかが重要だ。
その決断の結果、何も意味のない空騒ぎにすぎなかったのなら、
我々観客は二時間空騒ぎを見ていただけに終わる。
(15分や45分ぐらいなら、我々は空騒ぎを楽しむことができるかもしれない。
一気見する娯楽としての映画は、空騒ぎ以上の二時間を楽しむものである)

それが単なる空騒ぎにおさまらない、文学たりえるには、
「その決断(と結果)に意味があったこと」が重要だ。


とくに、主人公がそれをやっていることが大事で、
最も重要なその決断(おそらくクライマックスやラストの、最後の決断)が、
テーマを意味するのが理想である。


感情移入という点から眺めると、
まず騒ぎの面白さに注目することが第一段階だ。
主人公がどうやってこの苦境から脱出するのかを見てみたい、
という「興味」が、その第一段階である。

主人公は、おかれた状況(周囲の決断の渦中)で、
様々な決断をするだろう。
それは痛みを伴ったり、快感を伴ったりする。

そうこうしているうちに、
主人公の味わう痛みや快感が、徐々に観客のものになってゆくことが第二段階だ。

主人公の過去やほんとうの動機を知り、同情したり共感したりすることも、
これをスムーズにいかせるコツだ。
(人は自分と近しい存在には親近感を覚える。
が、まったく遠い人にも感情移入を起こすことは可能だ。
そのコツは、まったく遠い人と思われていたその人に、
自分と近い何かがあることを知ることだ)

感情移入は、クライマックスを迎えれば迎えるほど、強くなる。
主人公の痛みや快感や恐怖や喜びに、どんどん同化してゆく。
クライマックスやラストの決断こそ、
最もその振れ幅が大きいもののはずだ。

それをしたことにより、騒ぎは終結する。
「その最後の決断には、意味があったのだ。○○○という意味が」が、
テーマであるものが、理想の映画だ。
(それはテーマを演説することでは、決してない。
AをすることでBを意味していること、AとBが異なることが大事だ。
Aをモチーフ、Bをテーマという)



映画は、ひとつの旅である。
旅から帰還した時、人はどことなく成長する。変化している。
それは、その旅に意味があった時だけだ。

意味のない旅なら、それは単なる空騒ぎであり、
ゴジラやるろうに京都大火と同じジャンルのスナックにすぎない。
posted by おおおかとしひこ at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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