最近書いた、映画とは、を合成してみた。
両者が融合すると、より分かりやすくなった。
映画とは、なにかの騒ぎのことである。
事件でもいい。
それは、一人にだけ起こるのではなく、
最終的には誰か、周囲の人、世間などを巻き込む。
(セカイ系において、主人公とヒロインだけがあり、次に世界の興亡が取りざたされ、
間にあるべき世間がないのは、作者が世間に出ていない引きこもりだからだ)
その騒ぎは様々な人を巻き込み、最終的には終結する。
(その騒ぎの最初を異物との出会い、と定義したのが異物論だ)
騒ぎをおさめる最中、あるいは騒ぎを逆に起こす最中、
それらに関わる人々は、重要な決断をする。
あとに引き返せない、リスクとリターンと責任を伴う、腹を決め、行動にうつす、
決断である。
その決断と行動の結果、次々に事態は変わってゆく。
その複数の絡み合いこそが、ストーリーである。
さて、その決断の結果、何かの意味があったかどうかが重要だ。
その決断の結果、何も意味のない空騒ぎにすぎなかったのなら、
我々観客は二時間空騒ぎを見ていただけに終わる。
(15分や45分ぐらいなら、我々は空騒ぎを楽しむことができるかもしれない。
一気見する娯楽としての映画は、空騒ぎ以上の二時間を楽しむものである)
それが単なる空騒ぎにおさまらない、文学たりえるには、
「その決断(と結果)に意味があったこと」が重要だ。
とくに、主人公がそれをやっていることが大事で、
最も重要なその決断(おそらくクライマックスやラストの、最後の決断)が、
テーマを意味するのが理想である。
感情移入という点から眺めると、
まず騒ぎの面白さに注目することが第一段階だ。
主人公がどうやってこの苦境から脱出するのかを見てみたい、
という「興味」が、その第一段階である。
主人公は、おかれた状況(周囲の決断の渦中)で、
様々な決断をするだろう。
それは痛みを伴ったり、快感を伴ったりする。
そうこうしているうちに、
主人公の味わう痛みや快感が、徐々に観客のものになってゆくことが第二段階だ。
主人公の過去やほんとうの動機を知り、同情したり共感したりすることも、
これをスムーズにいかせるコツだ。
(人は自分と近しい存在には親近感を覚える。
が、まったく遠い人にも感情移入を起こすことは可能だ。
そのコツは、まったく遠い人と思われていたその人に、
自分と近い何かがあることを知ることだ)
感情移入は、クライマックスを迎えれば迎えるほど、強くなる。
主人公の痛みや快感や恐怖や喜びに、どんどん同化してゆく。
クライマックスやラストの決断こそ、
最もその振れ幅が大きいもののはずだ。
それをしたことにより、騒ぎは終結する。
「その最後の決断には、意味があったのだ。○○○という意味が」が、
テーマであるものが、理想の映画だ。
(それはテーマを演説することでは、決してない。
AをすることでBを意味していること、AとBが異なることが大事だ。
Aをモチーフ、Bをテーマという)
映画は、ひとつの旅である。
旅から帰還した時、人はどことなく成長する。変化している。
それは、その旅に意味があった時だけだ。
意味のない旅なら、それは単なる空騒ぎであり、
ゴジラやるろうに京都大火と同じジャンルのスナックにすぎない。
2014年08月11日
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