それから二度と彼には会えなかった、とか、
殆どの者が戦場から帰らなかった、とか、
もうあの場所はない、とか、
二度と戻らないあの時、とか、
国破れて山河あり、とか、
「既にない」ことをラストシーンにすることは、
よくある。
僕は映画より小説に多いような気がする。
何故なら、騒ぎを一通り描いて、
「その後、二度と彼と会う機会はなかった」と結ぶだけで、
なにやら文学になるからだ。
(騒ぎの主が死んで終わり、というのもよくある)
映画では、「少年時代」がこのタイプのラストだ。
僕は、これは映画ではない、と極論してみたい。
失われたものへのレクイエム、とこのタイプを呼ぶことにしよう。
死にオチ、ロストオチ、無常オチ、などと言い換えてもよい。
死や、失うことや、二度と帰らない無常感を書くことは、
平安の昔から文学のテーマだ。
夏草やつはものどもが夢の跡、だ。
僕はこれを否定するつもりはない。
たとえば原作風魔の小次郎の魅力のひとつは、
忍びが使い捨てされてゆく無常感にもある。
次々に死んでいき、顧みられることのない、
非情な世界の魅力だ。
そういえば原作いけちゃんとぼくのラストも、
二度といけちゃんに会わなかった、というオチだ。
(おんなのこ物語のラスト、ぼくんちのラストも、
実は同じパターンだ。他にちん坊の話や、転校生のいじめられっ子の話、
黒猫を殺す話、犬を見捨てる話など、サイバラはこの手のラストが好きらしい。
あるいは、死別を含む永遠の別れこそが、大人になること、
のように直感して書いているかもだ)
放っておけば消えてしまい、
永久にその存在があったことさえ分からなくなるようなことへの、
文学はその反抗かも知れない。
世の無常を嘆くでもなく肯定するでもなく、
ただそれを記録することで、
永遠に失われるものを、文学の中に置いておける。
それが書く動機かどうかはおいといても、
そのようなことが文学かも知れない。
それは小説のものであり、
映画でやるべきことではない、
と僕は考えている。
前項までで、
映画とは騒ぎに意味があったと思うこと、
と書いた。
死にオチは、やはり意味がない、虚しい終わりだと思う。
その騒ぎをおさめるために、
決断をすればするほど、
それが虚しい結果になるべきではない。
(戦争反対など、映画の枠を越えて何かを表現するときは、
戦争でやった全ての決断が無駄であった、
と描く皮肉はあるだろう)
主人公たちが必死でやったことは、
報われるべきだと思う。
ハッピーエンドかバッドエンドか、という話でもあるが、
僕はちゃんとしたハッピーエンド推奨派だ。
(安易なハッピーエンドは嫌いだ)
それは、主人公が必死にやればそれは報われて欲しい、
ということなのかも知れない。
たとえば、ドラマ「風魔の小次郎」では、
ハッピーエンドに書き換えた。
小次郎の、皆の戦いに意味があった(誠士館はなくなり、白凰は救われた)、
としている。
対比的に舞台版では、原作を踏襲し武蔵凍りエンドだ。
もともと小次郎たちの動機も薄く、決断にも乏しい話なのだが、
無常オチといってよいのではないだろうか。
どちらのオチがよいだろうか。
(カーテンコールなしの、終幕でハイサヨナラ、をイメージするといい。
それではちょっと物足りない話だと思う。
あのカーテンコール後の大騒ぎが、実質の本編といってもいい)
映画版「いけちゃんとぼく」でも、
原作にない「少年が大人になっていくさま」を主軸にし、
大人になったからこそいけちゃんが見えなくなる、
というテーマ性に書き換えている。
(原作では、突然さよならが訪れるだけだ。
もう書くことが尽きたから、おばちゃんそろそろ帰るわ、
という作者の本音すら聞こえてきそうな突然さだ)
僕の改変がベストかどうかは置いといても、
無常エンドは、映画にはそぐわないと思う。
小説やマンガではよくて、
映画ではダメなのは、二時間リアルタイムでがっつりつきあうこと、
と関係している気がする。
僕は、かの「レ・ミゼラブル」でさえ、死にオチに満足がいかない。
ただし、その革命に意味があった、
と死者の側から現世に訴えるラストの歌には胸を打たれた。
彼らの革命に意味があったことを証明するのは、現代の我々だ、
という強いメッセージがあったからだ。
(つまり、彼らの決断や戦いには意味があった。
が、ジャン・バルジャンの人生に意味を見いだせないのが残念だ)
全滅エンドを僕が初めて見たのは、「イデオン発動編」だ。
あの頃から、僕は無常オチには首をかしげている。
2014年08月12日
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