2014年08月13日

カタルシス

我々が映画を見る目的は何か。
予告で見た面白そうなシチュエーションが気になるから、
好きな人が出てるまたはつくったから、
面白そうな話だから、
など色々とあるだろう。

しかし、実は気づかない無意識というものがあって、
それはまず間違いなく、カタルシスを求めていると思うのだ。

人は、自覚しているしていないに関わらず、
カタルシスを味わうために映画を見るのだと思う。


カタルシスのなかった映画を、逆に思い出すといい。

なんか盛り上がらなかった、
ラストがなんか不満、
途中は良かったんだけど、
最初は引き込まれたけど途中から詰まらなかった、
派手な絵の割になんか冷めた、
金かかって贅沢な筈なのに、
やっぱ安い予算ではこれは盛り上がらないなあ、
だらだら終わってスッキリしなかった、
やっと終わったかー、
などなどの不満を抱えたはずだ。

それは、イケなかったセックスと同じである。
まあ良かったよ、良かったけど、
という不満が残るのだ。
映画は、いいセックスのように、完全燃焼し、
一度死ぬくらいの頭が白紙になることを経験し、
涙を流すような、生まれ変わるほどの体験であるべきだ。

いい映画を見たことのない人は、
セックスでイッたことない人のように、
映画で味わうカタルシスを味わったことのない、不幸な人だ。


本当のカタルシスは、言葉に出来ない感情が押し寄せ、
自分が制御出来なくなるほど理性が飛ぶ。
その衝撃は見終わったあとも続き、
しばらく日常に戻ってこれないほどである。

いい映画を沢山見ている人は、
それに匹敵するカタルシスを味わいたくて、
映画を見るのだ。
(一種の中毒でもある。そのような人をシネフィルという)


人は、本当にいい映画で、
死を味わう。
一度死ぬ。
そしてその中から再生する。
死の意味をわかり、再生する意味もわかる。
肉体的に、ではなく、精神的にだ。

カタルシスは心の浄化などと訳される。
古い何かが押し流され、心が新しく生まれ変わるのだ。


そのような物語とは、どのようなものか。


カタルシスは、クライマックスやラストでおこる。

クライマックスに派手な絵を用意しない映画はない。
クライマックスはお金のかけどころであり、
いかに映画のダイナミズムを体験させるかという、
フィルムメーカーの腕の見せ所だ。
予算の1/3や半分を投入しかねない、凄い仕掛けを用意することもある。
あるいは金をかけず、一対一の演技勝負となるような緊張のクライマックスもある。
いずれにせよ、絵的ダイナミズムを用意する。

しかしそれだけでは、カタルシスではないことに注意せよ。
何発ダイナマイトで巨大なものを爆破しようと、
天地がひっくり返るCGで度肝を抜こうと、
どんな絵的に胸をすくことをしたとしても、
それは絵のカタルシスであり、
内容のカタルシスではない。

内容のカタルシスが重要なのだ。

内容のカタルシスは、外面ではなく、
主人公の内面に起こる。
彼の内的問題の解決こそが内容のカタルシスなのだ。


心の中は画面に写すことが出来ないから、
内的カタルシスを、絵的カタルシスで表現するように、
ストーリーを組んでいくのだ。

絵的カタルシスはそれ単独では機能しない。
それがセンタークエスチョン(主人公の問題ではない、外的問題)
の解決の絵であり、同時に主人公の内的問題の解決を意味したとき、
つまり双方の象徴となったとき、
カタルシスを表現したことになるのだ。

(例えばドラマ「風魔の小次郎」では、問題解決の瞬間、
すなわち、死んだ夜叉姫の前で巨大夜叉面を風林火山で真っ二つにしたときだ。
長い戦いの終わりの絵であり、彼の内的問題、真の忍びになることの象徴的場面である。
本来ならここでダイナミックな音楽がかかり、
姫子たちと抱き合い皆で勝利の雄叫びをあげ、
気絶するようなカタルシスを描くべきだった。
ただ武蔵を斬ったことの伏線回収があるため、
そこまでカタルシス的場面にするわけに行かなかったのだ。
真のカタルシスのシーンは、ラストのキスシーンかも知れない。
ここが彼の物語の完成だからだ)


主人公の内的問題の解決がテーマであり、
それを表現する絵的カタルシスがモチーフなのである。
主人公の内的成長に関しては、今まで沢山書いたのでそれを参照されたい。


外的問題の絵的解決のカタルシスだけでは、
クライマックスは半分も描けていない。
それが内的カタルシスになることが、
素晴らしいクライマックスやラストなのだ。



るろうに京都大火編を例にとる。
前記事で批判したように、絵的ダイナミズムは素晴らしいが、
それが何ら人間ドラマになっていないことが問題だ。
そこで、クライマックスにカタルシスを味わえるように改変してみよう。
絵的カタルシスと内的カタルシスの一致を見るように、だ。


前後編の前編であるから、
この映画のクライマックスは、前後編のミッドポイントだ。
ブレイク・シュナイダーの理論によると、
ここは仮の勝利または敗北である。

仮の勝利だとしてみよう。
京都大火を食い止める、
という絵的カタルシスをクライマックスにするとする。
凄いアクションの結果、大火の計画は救われた、
しかしそれは、かりそめの勝利だった、として話は続くことにする。

凄いアクションは、志々雄との直接対決にしよう。
これに勝利するのだ。
(しかしこれは偽志々雄だった、というオチにしよう)
剣心の内的問題は何か。
ちゃんと筋立てて描かれていないが、
「不殺を貫きたいのに、貫けないこと」だ。
宗次郎に対してその誓いを破るなど、
中盤で敗北も描かれている。
従って内的カタルシスは、「不殺を貫けた」ということになる。

色々な凄いアクション(屋根の上で炎に巻かれながら戦うとか)ののち、
峰打ちしても峰打ちしてもゾンビのように立ち上がる志々雄が、
例えば薫を人質に取るなどして逆刃刀を捨てさせ、
志々雄の太刀を真剣白刃どりなどで取り、殴りあいでついに勝つなどして、
不殺を貫けた、というカタルシスを描くのだ。

京都大火(未遂)の犯人を挙げたことと、
剣心の内的カタルシスを一致させるのだ。
(このあと実は偽者だったということが分かり、
薫がさらわれ戦艦へとつなげばいい)

このシーン内で改変することにしてみたが、
その絵的カタルシスについて、もっと前から伏線を張り、
見たことのない絵にすることを考えると更に良くなるだろう。

原作のこのあとを知らないのでよく分からないが、
偽志々雄は、実は皮膚を焼かれた宗次郎だった、
という身代わりネタにしたりすると、
中盤の敗北の伏線回収になって面白いかもだ。

こうすることによって、単なる前編ではなく、
一本の映画として話をまとめ、カタルシスを生むことが出来るだろう。
このあと、同様に、京都大火は囮だったことがわかり、
戦艦を追い、嵐の海に飛び込み、謎の男に発見されてつづけばよい。

勿論これには、不殺を映画全体のテーマとするように、
殺すことと剣心の対比をしなければならない。
序盤でその誓いを破る何かをやらかしてもいいぐらいだ。
あるいは、神谷活心流が殺人剣より素晴らしい、
という象徴の技を道場シーンで描いておき、
その活人剣をラストに使う、などにしてもよいだろう。



クライマックスにカタルシスがあることで、
その映画は、物語を昇華する。
ただの空騒ぎではない、意味のあったものなのだ、
と見た側が感じるのである。


映画とは、事件の解決を描くことだ。
しかし同時に、主人公の内的問題を解決するものでもある。
それらが同時に解決すること、
内的カタルシスが絵的カタルシスで表現されることが、
本当にカタルシスを描くことだ。

そのカタルシスは、
ひとつの死であり、ひとつの再生である。
すなわち、成長である。
posted by おおおかとしひこ at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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