2014年08月13日

編集の威力

ヒッチコックの実験的ワンカット映画「ロープ」を見た。
ワンカット撮影ということを今考えていて、
丁度見てなかったので。

見ることで浮かび上がるのは、逆に編集の凄みだ。


ちょいちょい時計を見ながら見ていたのだが、
ここらでミッドポイントかな、
という体感が、60分ぐらいだった。
いつもの映画なら大体合ってるが、
この映画は80分だ。
もうクライマックスなのかよ、と時計に突っ込んだ。

ワンカットは、内容が薄くなる。

濃くなるのは、緊張だ。
濃密な緊張こそが、ワンカット演出なのだ。

その代わり失うものがあって、
それが内容の練りなのだ。


技術的に解説してみよう。

まず、人物の移動とカメラの移動に、実時間がかかる。
人物の移動につける(人物と共にカメラが動く)ことで、
次々に絵が変わることを、
色々な場所で使っている。
背景を変えたり(空の変化、
今まで一度も写さなかったチェストの上手側にあるネオンを、
クライマックスで写しこみ赤の反射でライティングするなど、
恐るべき計算だ)
することや、カメラ前でパーティの人々が入れ替わり立ち替わりして、
それぞれの話をすることなどに使われている。

一見、スムーズに人が出入り出来るように、
導線の計算がなされているように思える。

しかし、編集前提ならば、簡単にカットを割って、
その移動の間を切ることが出来る筈だ。


移動の間に、ドラマは進行していない。
移動を、観客である我々は待たなくてはならないのだ。
それがある種の現実的緊張感を増しているものの、
その段取りのせいで、ドラマの進行が止まるのである。
つまり、ここを切ることで、ドラマは濃くなる。

編集とは、我々観客が待つ間を、切ることなのだ。
3分間クッキングでは、30分煮込んだものがここにあります、
などといって時間を省略する。これと編集は同じことである。

現実では、ストーリーの進行には無駄な時間がたっぷりあるということだ。
(その間余計なことを考えハラハラさせるように、
チェストの中の死体がある。それがいつ見つかるのか、
ということを無駄な時間に考えてしまうのが、
そもそもの狙いでもあるが)


クローズアップが出来ない。
銃をポケットの中に入れる、ロープをポケットに入れる、
帽子のイニシャルを見せる、後ろ手でタバコケースをチェストの上におく、
などの、手元小道具関連のショットは、
普通なら編集でインサートすればいいショットだ。
これをワンカットでこなすために、
カメラはいちいちそこに近づき、
また遠景に戻すために引かなければならない。
これは業界では「行ってこい(ただ行って戻るだけ)」と言って、
ただ下手くそなやり方である。
近づいたあと、例えば横にふりつつ移動などの工夫をすればまた違ったかもしれない。
が、その間「我々観客が待つ」ことは同じだ。

クローズアップのインサートは、
映画編集の初期からのモンタージュである。
これは、原始的に有効であると、
この映画を見ると納得がいく。



そして、僕がワンカット撮影を怖がる最大の理由が、
そこに出ていた。
それは、「あとで間を整えることが出来ない」ことだ。
この後半ならばこの前半の間はこうするべきだ、とか、
全体で通して見たときのバランスや間の変更が、
ワンカット撮影では出来ないのである。
つまり、監督の手を離れてしまうのだ。

芝居なら、走り出したら、観客を見ながら間を作ることが出来る。
その呼吸は、毎回違うのであり、
物語の熱をやりながら作っていくのが芝居でもある。

この映画が本当にワンカットなら、
それなりに間もいけただろう。
スタートからエンドまで、舞台劇のように、
監督を観客として、間をつくりながら最後までいけたはずだ。
しかし厳密にはワンカット撮影でもなんでもなく、
10カットぐらいに刻んでいる。
(背中で暗転するいくつかの繋ぎと、切り返しが何度かあった)
ということは、それらの部分の間で演じただけだ。
本来、編集では、そのばらつきをコントロールするために切り刻むのだ。
しかし、ただ繋ぐことしか出来ないようにしか撮られていない。
つまり、間をコントロールするという意味での編集が、
なされていないのだ。

だから序盤は上手く乗れず、パーティのどこかで集中力を失う。
後半の濃密な芝居に対して、
前半はもっとテンポがあるべきである。
しかしワンカット撮影である以上、あとからコントロール出来ない。



また、切り返しという単純な会話が出来ないため、
二人が喋る時には、常に我々は二人の横顔を見なくてはならない。
これが顔でキャラクターを区別する映像には、
まるで不向きになっていることに注意されたい。
それをヒッチコックは自覚していて、
なるべく横に並んで会話するような、
二人の正面がカメラに向くような人物の配置を多用している。
したとしても、その配置になるように人物とカメラが動くのを、
我々観客が待たなくてはならない、というジレンマつきだ。



どちらかというと演出論になってしまった。

脚本論的な経験則をひとつ。
1ページ1分という原則は、
これをワンカットで撮ると崩れることは知っておくほうがいい。

役者や我々の生理で意味を理解しながら台詞を言うと、
1.2から1.5倍の時間がかかるのだ。
つまり、間をたっぷり取るのだ。

1ページ1分は、編集でテンポをつくったときに初めて実現出来る。
日本映画に間が多いのは、カットを割らないからである。
posted by おおおかとしひこ at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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