2014年08月13日

カタルシス追記

るろうに京都大火編の、
カタルシスに関するリライト例を書いてみたが、
正解は一通りではない。

逆のカタルシスのリライトを試してみよう。
「不殺の誓いを破り、殺すこと」だ。


こちらのほうがるろうに剣心の本質に近いかも知れない。
神谷活心流は、理論的にはいいが、
戦場では役に立たないことを、
クライマックスで示すのだ。

この場合薫の面子がまる潰れだから、
神谷活心流には奥伝があり、
殺人剣を伝承しているパターンにしてもよい。
(講道館柔道は、活人技としての柔の術と、
高段者むけに打撃技の伝承をしている。
本来柔術は、総合格闘技でみるように、
打撃から入って投げて極めるものだ。
その殺人的な打撃も、本来柔道は伝承されているのだ。
現代は形骸化しているが、当て身の形が柔道には存在する)

不殺などという甘ちゃんでは、
実戦はこなせない。
殺さなかった故に、誰かが殺される、というエピソードを入れる必要がある。
大事な人が死ぬとよいが、
途中の村のエピソードを改変するあたりが妥当かも。

抜刀斎に戻るには、へんてこなしゃべりをやめる、
というのを「変身」の合図にする。
クライマックスは、薫の目の前での変身だ。
彼女の目の前で、偽志々雄を殺すのだ。

殺し合いは螺旋だ。
その螺旋を自分の代で終わらせることを、
抜刀斎の動機に、
自分は不殺で新しい時代をつくりたいことを、
剣心の動機にし、
彼を自覚的二重人格に置くのだ。

この拮抗を序盤から上手くやるといい。
道場で活人剣を教えておいて、
実戦の不殺でもそれを使い、
宗次郎戦で、殺人剣を使わざるを得ない、
うっかり抜刀斎に戻ってしまう様を描く。
しかし剣心として戦おうとし、
逆刃刀を折られるという顛末にするといい。

クライマックスは、真打ちのエピソードを全く削って後半に回す。
張との京都のでの対決にしよう。
ここで、薫の目の前で折れた逆刃刀を捨てて、
死体から日本刀を拾い、彼を殺すのだ。
それが絵的にカタルシスとなるように、
何かの建物を燃やし、その炎の中で戦うような絵をつくればよい。

暗殺の口上によく使われる、
「木が大きく育つためには、枝葉を適宜落とす必要がある」
を抜刀斎に戻った剣心の口から言わせてもいい。
活人剣は、戦場に相応しくない、と断言させてもいい。
女子供はひっこんでろ、と断言させてもいい。

一種の悪落ちカタルシスである。

僕は少林寺拳法初段程度に武道をたしなみ、
ついでに武術マニアなのだが、
少林寺の教えに、
「正義なき力は暴力、力なき正義は無力」というものがある。
この後半の、力なき正義を神谷活心流にしてしまい、
それを全否定するのだ。

暴力と暴力のぶつかり合いこそ戦場だ、
という絵を、京都大火とすればよいのだ。
問題は、正義がどこかに集約される。
罪もなき人を焼くテロは正義ではないとするのが、
抜刀斎側の正義だろう。

かくして、抜刀斎に戻った剣心は、
このバージョンでのラスボス、張を飛天御剣流の何かで、
殺すことになるだろう。

あとは薫がさらわれ戦艦へ、海へ落ちて謎の男に回収、
の流れは同じだ。
後編は、抜刀斎から剣心へ戻ることがテーマになるのは当然だが。



このように、真逆の方向でもカタルシスを作ることは可能なのだ。
問題は、ラストのカタルシス、つまりテーマを、
何にするかなのだ。
それを決めて、逆算で物語を創作するのである。
それが、映画形式の物語にすることなのだ。
(恐らく、原作の流れを壊さない、
最も適当なテーマは何か、という議論や、
この程度のプロットレベルの議論が、
なされていないのではないだろうか。
脚本力がないとこの議論は出来ない。
そして経験した限り、このレベルの議論が出来る人は少ない)

るろうに京都大火編は、その「テーマ」のない物語だった。
だからアクションが空騒ぎしているのである。

また、実は一番気になったことがあって、
アクションの技が、意味を表現していないことだ。
見た目に面白いだけで、ストーリーを語っていないのだ。
ここからストーリーパート、ここからアクションパート、
と担当を分けすぎなのである。
(これは監督を分けている弊害のひとつ)

上のようなリライトなら、
活人剣と殺人剣のアクションを変えるべきだ。
それも、素人が見てわかるようにだ。
たとえば、活人剣は現代剣道の技に限定する。
それ以外の外道技を殺人剣とするのだ。

例えば足払い、脛切り、低い態勢になってからの切り、
肘や頭突き、つばぜり合いから投げを打ち、第三者にぶつけること、
のような、江戸時代外道と呼ばれた技を殺人剣とする。
これを、序盤の神谷道場で示しておく。
常に正眼に構えそれを崩さないことが己を崩さないことなのだ、
という心構えとしての教えなのだ、
と外道技を使う弟子を、薫がたしなめるのだ。
そんな甘いこと言ってられんでしょ、と反発する弟子に対して、
外道を使わないぐらいに、己の中に不動をつくるのが、
神谷流なのでござるよ、と剣心に解説させるとよいだろう。

ここまで前ふっておけば、
剣心が抜刀斎に落ちたことを、技で示すことが出来る。
現代剣道で向かってくる敵を、外道技で切るのだ。

事実、殺陣の中ではそれらの多用が見られた。
スライディングや体術の多用もあった。
恐らく外道技の多いタイ捨流の技を多く取り入れ、
中国武術やそれを源流としたパルクールあたりと混ぜている。
殺陣師がやっていることは、僕には大体分かるのだが、
一般にはスゴイということしか分からない筈だ。
だから前ふっておく。
ストーリーと殺陣は、このように関連するべきである。

それが出来ない者は、剣劇でないと思う。

殺陣は台詞と同じだ。
台詞の応酬の代わりに、剣を交えるのだ。

そのひとつひとつの会話が、判らなくてどうする。

そしてその技こそが、剣士の主張になるように、
彼の変化を示すように、分からせるべきだ。

単純に「喉への突きは必殺である」であることを前ふっておき、
スライディング→投げ→崩れたところを張があがく→構えて交差法で喉突き、
などの流れで、殺人剣の使用を観客に分からせるとよいだろう。
殺しちゃダメー!と叫ぶ薫の目の前でこれをやることが、
ドラマを生むのだ。


るろうにの殺陣は凄い。
しかし、それが空騒ぎなのは、
ひとつひとつの技が、台詞になっていないところだ。
台詞でクライマックスを作るように、
殺陣で作るべきだ。それが分かるように作ると、
それがカタルシスになるだろう。

posted by おおおかとしひこ at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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