るろうに京都大火編の、
カタルシスに関するリライト例を書いてみたが、
正解は一通りではない。
逆のカタルシスのリライトを試してみよう。
「不殺の誓いを破り、殺すこと」だ。
こちらのほうがるろうに剣心の本質に近いかも知れない。
神谷活心流は、理論的にはいいが、
戦場では役に立たないことを、
クライマックスで示すのだ。
この場合薫の面子がまる潰れだから、
神谷活心流には奥伝があり、
殺人剣を伝承しているパターンにしてもよい。
(講道館柔道は、活人技としての柔の術と、
高段者むけに打撃技の伝承をしている。
本来柔術は、総合格闘技でみるように、
打撃から入って投げて極めるものだ。
その殺人的な打撃も、本来柔道は伝承されているのだ。
現代は形骸化しているが、当て身の形が柔道には存在する)
不殺などという甘ちゃんでは、
実戦はこなせない。
殺さなかった故に、誰かが殺される、というエピソードを入れる必要がある。
大事な人が死ぬとよいが、
途中の村のエピソードを改変するあたりが妥当かも。
抜刀斎に戻るには、へんてこなしゃべりをやめる、
というのを「変身」の合図にする。
クライマックスは、薫の目の前での変身だ。
彼女の目の前で、偽志々雄を殺すのだ。
殺し合いは螺旋だ。
その螺旋を自分の代で終わらせることを、
抜刀斎の動機に、
自分は不殺で新しい時代をつくりたいことを、
剣心の動機にし、
彼を自覚的二重人格に置くのだ。
この拮抗を序盤から上手くやるといい。
道場で活人剣を教えておいて、
実戦の不殺でもそれを使い、
宗次郎戦で、殺人剣を使わざるを得ない、
うっかり抜刀斎に戻ってしまう様を描く。
しかし剣心として戦おうとし、
逆刃刀を折られるという顛末にするといい。
クライマックスは、真打ちのエピソードを全く削って後半に回す。
張との京都のでの対決にしよう。
ここで、薫の目の前で折れた逆刃刀を捨てて、
死体から日本刀を拾い、彼を殺すのだ。
それが絵的にカタルシスとなるように、
何かの建物を燃やし、その炎の中で戦うような絵をつくればよい。
暗殺の口上によく使われる、
「木が大きく育つためには、枝葉を適宜落とす必要がある」
を抜刀斎に戻った剣心の口から言わせてもいい。
活人剣は、戦場に相応しくない、と断言させてもいい。
女子供はひっこんでろ、と断言させてもいい。
一種の悪落ちカタルシスである。
僕は少林寺拳法初段程度に武道をたしなみ、
ついでに武術マニアなのだが、
少林寺の教えに、
「正義なき力は暴力、力なき正義は無力」というものがある。
この後半の、力なき正義を神谷活心流にしてしまい、
それを全否定するのだ。
暴力と暴力のぶつかり合いこそ戦場だ、
という絵を、京都大火とすればよいのだ。
問題は、正義がどこかに集約される。
罪もなき人を焼くテロは正義ではないとするのが、
抜刀斎側の正義だろう。
かくして、抜刀斎に戻った剣心は、
このバージョンでのラスボス、張を飛天御剣流の何かで、
殺すことになるだろう。
あとは薫がさらわれ戦艦へ、海へ落ちて謎の男に回収、
の流れは同じだ。
後編は、抜刀斎から剣心へ戻ることがテーマになるのは当然だが。
このように、真逆の方向でもカタルシスを作ることは可能なのだ。
問題は、ラストのカタルシス、つまりテーマを、
何にするかなのだ。
それを決めて、逆算で物語を創作するのである。
それが、映画形式の物語にすることなのだ。
(恐らく、原作の流れを壊さない、
最も適当なテーマは何か、という議論や、
この程度のプロットレベルの議論が、
なされていないのではないだろうか。
脚本力がないとこの議論は出来ない。
そして経験した限り、このレベルの議論が出来る人は少ない)
るろうに京都大火編は、その「テーマ」のない物語だった。
だからアクションが空騒ぎしているのである。
また、実は一番気になったことがあって、
アクションの技が、意味を表現していないことだ。
見た目に面白いだけで、ストーリーを語っていないのだ。
ここからストーリーパート、ここからアクションパート、
と担当を分けすぎなのである。
(これは監督を分けている弊害のひとつ)
上のようなリライトなら、
活人剣と殺人剣のアクションを変えるべきだ。
それも、素人が見てわかるようにだ。
たとえば、活人剣は現代剣道の技に限定する。
それ以外の外道技を殺人剣とするのだ。
例えば足払い、脛切り、低い態勢になってからの切り、
肘や頭突き、つばぜり合いから投げを打ち、第三者にぶつけること、
のような、江戸時代外道と呼ばれた技を殺人剣とする。
これを、序盤の神谷道場で示しておく。
常に正眼に構えそれを崩さないことが己を崩さないことなのだ、
という心構えとしての教えなのだ、
と外道技を使う弟子を、薫がたしなめるのだ。
そんな甘いこと言ってられんでしょ、と反発する弟子に対して、
外道を使わないぐらいに、己の中に不動をつくるのが、
神谷流なのでござるよ、と剣心に解説させるとよいだろう。
ここまで前ふっておけば、
剣心が抜刀斎に落ちたことを、技で示すことが出来る。
現代剣道で向かってくる敵を、外道技で切るのだ。
事実、殺陣の中ではそれらの多用が見られた。
スライディングや体術の多用もあった。
恐らく外道技の多いタイ捨流の技を多く取り入れ、
中国武術やそれを源流としたパルクールあたりと混ぜている。
殺陣師がやっていることは、僕には大体分かるのだが、
一般にはスゴイということしか分からない筈だ。
だから前ふっておく。
ストーリーと殺陣は、このように関連するべきである。
それが出来ない者は、剣劇でないと思う。
殺陣は台詞と同じだ。
台詞の応酬の代わりに、剣を交えるのだ。
そのひとつひとつの会話が、判らなくてどうする。
そしてその技こそが、剣士の主張になるように、
彼の変化を示すように、分からせるべきだ。
単純に「喉への突きは必殺である」であることを前ふっておき、
スライディング→投げ→崩れたところを張があがく→構えて交差法で喉突き、
などの流れで、殺人剣の使用を観客に分からせるとよいだろう。
殺しちゃダメー!と叫ぶ薫の目の前でこれをやることが、
ドラマを生むのだ。
るろうにの殺陣は凄い。
しかし、それが空騒ぎなのは、
ひとつひとつの技が、台詞になっていないところだ。
台詞でクライマックスを作るように、
殺陣で作るべきだ。それが分かるように作ると、
それがカタルシスになるだろう。
2014年08月13日
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