2014年08月15日

物語と一枚絵と記憶の関係

これまでに何度か書いていることを、一端整理してみる。

凄くいい物語があるとする。
ラストシーンは、凄くいい表情、
例えば笑顔の主人公で終わるとする。
そうすると、その笑顔が、物語全体の結論であり、象徴となる。
その笑顔をその物語のイコンとして記憶するのだ。
(仮説だが、記憶容量を圧縮するために)
逆に、その笑顔を見るとその物語を思い出す。
その笑顔を、物語の代わりとして使うようになる。

さあここからだ。
物語を忘れることもあるが、笑顔だけは覚えている。
だから、笑顔がよかった、という結論になり、
物語がよかったからだ、という結論を出すことが出来ない。

これが、俳優が人気が出て、脚本家に人気が出ない理由だ。



物語を記憶することは、一枚絵を記憶することより、
圧倒的に難しい。

一度見た写真や絵を、まだ見てないものからより分けるのは、
かなり簡単だが、
プロットを並べられて、見たものだけをより分けることは困難だ。
写真や絵の類似は、構図や配色などの要素に分けて、
似てる度合いの順に並べることができるが、
プロットの類似を、度合いの順に並べることは難しい。
どちらがより似ているか、という基準がない。

写真や絵の模写は出来るが、
物語の模写は難しい。
見た絵を見ずに再現することはある程度できても、
聞いた話をあとで再現することは困難だ。

つまり、我々の脳の機能自体が、
物語を扱うには少々足りないのだ。
(特別に出来る人を才能とよぶ。天賦の場合も、後天的なものもある)


だから、物語の記憶はいずれ消失し、
なんとなくよかった、悪かったというひとつの感情に収束(圧縮)し、
それが、この場合笑顔という一枚絵の印象として記憶される。

これを、殆どの人は、
その俳優の笑顔が素敵だからだ、と勘違いをしてしまうのだ。


クレショフのモンタージュ実験が示すように、
ラストの笑顔は、たとえ無表情であっても、
その文脈さえ出来ていれば、とてもいい演技に見える。
勿論、俳優や監督は、ストーリーの意味を込めた最高の笑顔を引き出すが、
映画がモンタージュでものを語る以上、
それまでの文脈がしっかりしていれば、
どんな顔でも最高の笑顔に見えるのだ。
(逆にそうでなければ、カットを繋いで物語を語ることは出来ない)

だから、笑顔の価値を決めるのは、
俳優の素敵な笑顔の造形ではなく、物語なのである。


さて、このようなことを知らない殆どの人は、
俳優の演技力と勘違いするのだ。
その素敵な笑顔さえあれば、駄目なストーリーに魔法がかかると思うのだ。

人気俳優ばかり出た詰まらない話は、
だからどんなに素敵な笑顔の俳優を使っても、
必ず失敗する。
問題は、笑顔ではなく話なのだ。

このようなことを知らない殆どの人は、
笑顔だけで話を理解しているから、
笑顔に曇りがあったから、この話はよくなかった、
つまり俳優の賞味期限が過ぎた、と評価する。

阿呆ここに極まれり。



また、
同性の笑顔の場合はそのキャラクターを好きになり、
異性の笑顔の場合はその俳優自身に恋をする傾向にある。

つまり、同性のほうが見方が厳しく、
異性のほうが基準が少し甘くなる。

ドラマ「風魔の小次郎」では、
殆どのファンは女の人だ。
小次郎や麗羅や霧風よりも、村井良大や鈴木拡樹や古川雄大に恋をして、
蘭子さんや姫子さんが好きになってくれたようだ。
男のファンに聞くと、
川原真琴にみんな恋をしていて、亜弓の他の仕事に興味を持ち、
小次郎や武蔵や壬生などの好きなキャラの話をして、
男友達のような連帯感を持っている。

僕個人の例でいうと、
原田知世、富田靖子に僕はまだ恋をしているし(「時をかける少女」「さびしんぼう」)、
高岡早紀の笑顔にまだ恋をしている(「バタ足金魚」)。
奥菜恵もあれだけの事件がありながら、
最初に好きになった思いから変わっていない(「打上げ花火」)。
島本須美(多分今70歳ぐらい)は目をつぶれば抱ける(クラリス、ナウシカ、音無響子)。

まあ、役が好きなのか中の人が好きなのか、
区別がつかなくなっていく、という話だ。
吉永小百合や原節子の人もいるだろうし、
ウィノナ・ライダーの人もいるだろう。


恋は人を盲目にする。
多少お話が駄目でも評価を甘くしてしまう。
(認知的不協和理論。評価を下げることは、恋を否定する不安のためやらない傾向にある。
心理的評価が理性的評価に影響を与える例)

人気俳優を駄目なストーリーに使うのは、
評価を甘くしてね、というプロデューサーからのメッセージだ。
我々は断固として、ノーを言うべきだ。
こんな下らない話に、私の好きな人の時間を使わせないでください、と。



とてもいい物語は、
とてもいい一枚絵を残し、
とてもいい恋や、キャラクターへの好感を残す。

キャラクターや俳優が先ではなく、
一枚絵が先ではない。
全ては物語があるからである。
posted by おおおかとしひこ at 11:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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