かつて芸術は、具体的なものを具体的に描くことだった。
美しい風景の絵、
美しいヌードの彫像、
技術的な言葉でいえば具象である。
写真が出来て、具象の絵はあまり意味をなさなくなった。
(特別なタッチで何かを描く具象はまだ人気だが、
ハイパーリアリズムは、写真でええやん、となる。
同じく、石膏で型どりしただけの立体物は、
具象芸術ではない)
従って近代芸術は、具象でなく抽象表現に変化した。
抽象の初期は、技術的な実験だ。
かつて具象を扱った道具で、
どんな変わった表現をできるか、に挑戦する。
それによって新しいテクスチャー(絵のさわり心地、とでも訳すか)が、
次々に生まれていくのだ。
同時に、意味のずらしが行われる。
美しい女を描いて美しい女を表現した具象と違い、
美しい女をグロテスクに描いて、
内面と外面の差を意味させたり、
地球環境破壊への警鐘を表現しようとするのである。
物語における、モチーフとテーマだ。
美しい女がモチーフ、
表現しようとしている意味がテーマだ。
具象とは、モチーフとテーマが一致していることで、
抽象とは、モチーフとテーマが違うもののことをいう。
「これは、何を意味しているの?」は、近代芸術で最も問われる問いで、
「さっぱり分からん」は、近代芸術で最もよくある感想だ。
近代芸術は、
モチーフを選ぶこと、
テーマを選ぶこと、
モチーフを巧みに描くこと、
そこにテーマが見えてくるように分かりやすくすること、
そしてその組み合わせが芸術的価値を有すること、
この5つの項目において、水準をこえなければならない。
それは、
モチーフを選ぶこと、
それを上手に表現すること、
の2つの項目で水準をこえればOKの、具象芸術よりも、
はるかにつくるのが難しい芸術なのだ。
カワイイ女の子の写真は、
記録写真でもあり、ライティングや構図やポージングなどの技能を駆使した、
具象芸術でもある。
しかしこれを現代文明の批判をするような抽象芸術にしようとすると、
途端に写真は難しいものになる。
(カメラマンの「作品撮り」って急に難しくなるよね)
キレイなものをキレイに撮るだけじゃ写真はいかんのか、
という具象芸術であろうとするベクトルと、
写真は芸術じゃねえよ、だってシャッター押せば誰でも撮れんじゃん、
というベクトルが写真というジャンルには常にある。
映画は、近代芸術である。
物語は、そもそも具象芸術ではない。
「今日食べた桃がおいしかった」という日記や、
「僕の好きなこの人は、髪が美しく瞳が素敵だ」という描写や、
「あなたのことが好きです」という意思表示や、
「片づけはみんなでやるべきだと思う」という主張は、
具象の文章である。
物語は、とある事件の発生と解決をモチーフとして描き、
それが最終的にどんな意味があるかというテーマを意味させる、
近代芸術である。
すなわち、
モチーフを選ぶこと、
テーマを選ぶこと、
モチーフを巧みに描くこと、
そこにテーマが見えてくるように分かりやすくすること、
そしてその組み合わせが芸術的価値を有すること、
この5つの項目に水準以上のよさが必要なのだ。
これを真に理解するのなら、
近代抽象絵画や、近代書道や、近代彫刻や、近代写真や、
近代音楽や、近代舞踏や、近代のアートと呼ばれるジャンルが、
途端に分かるものになってくる。
そしてその5つの基準のどれに優れてどれが劣るかも、
評論出来るようになる。
逆に、近代芸術のそれを分からないやつは、
脚本も全然詰まらないだろう。
歌や俳句や音楽や踊りは、僕は近代芸術以前の、
原始的具象芸術だと思っている。(プログレは違うかな)
進化に遅れたものではなく、原始的強さを持っているという意味で、尊敬している。
逆に近代芸術とは、目と脳が進化させたもので、
原始的具象とは、耳と口と身体に残っているのかも知れない。(鼻は、マイナーか)
近代芸術を、フィーリングでいいとか素敵とか言っている奴は、
そのテクスチャーが好きだと言ってるに過ぎず、
モチーフを具象性で見ている輩に過ぎない。
近代芸術が最も批判されるべきは、このモチーフでそのテーマを意味させるのは、
難しすぎるだろゴラア、という点だと思う。
2014年08月16日
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