2014年08月18日

外的話だけだと限界がある

外的話、というのは、事件の発生と解決の顛末だ。
映画は、二時間かけてこの問題を解決する。
(とくに、主人公が解決する)
その解決すべき中心の問題をセンタークエスチョンとよぶ。
(センタークエスチョンは様々なサブ問題に分解されることが多い。
例えば脱出のために、車を手に入れる、ガソリンの確保など)

ロッキーなら、世界戦の勝利
(サブ問題はトレーナーの確保、ファイトスタイルの矯正)、
マトリックスなら、敵の殲滅
(サブ問題は裏切り者の始末、モーフィアスの救出)
だ。(マトリックスではセンタークエスチョンは解決しきらず、
その希望が見えたところで終わる)

大抵は小さい問題からはじまって、
そのうち問題の全貌が見える。(第一ターニングポイント)
サブ問題などに手をつけはじめ、
色々あってあとひとつに絞られる。(第二ターニングポイント)

さて、注意したいことは、単なる外的問題解決話では、
たいして面白くない、ということだ。
「内的問題の解決」と話が並行しているから、
映画は面白いのだ。


どんなインパクトのある珍奇な問題でも、
30分を過ぎれば飽きてくる。
それが主人公の内的問題に関係させるのが、
面白い物語のコツだと思う。

「世にも奇妙な物語」などのシリーズは、
特別に変わった外的話をつくる企画である。
しかし10分から30分の短編のため、
奇妙な外的話であるだけですむ。
短編は外的話だけで成立するが、
それより長いと、内的な話がないと詰まらないのだ。


極端な例を。
「キン肉マン」という漫画は、今も昔も、
外的話だけを焦点にしている物語だ。
悪魔超人と戦う、完璧超人と戦う、などのセンタークエスチョンに、
○○が△△と戦う、というサブ問題を描きつづける。
内的な話、つまり、各キャラの内面に関わる話はほとんどない。

主人公であるキン肉マンの内面が描かれることは殆どなく、
彼の内面が問題の焦点になることは殆どない。
(48の殺人技を身につけるなど、修行のあたりでちらりとある程度か)
サブキャラの過去や生い立ちや隠された秘密が、
今ある外的話と関連することは、時々ある。
が、各キャラの内面的な深い話はないまま、物語は進行し続ける。
これを読んでいた少年なら、
それでもスゲーとか言ってられたのだが、
大人になってこれを読むのは苦痛だ。

外的話だけでは、長編は持たない。
それがどんなに変わった話でもだ。
(身内の恥をさらすが、
「鈍獣」というへんてこな外的話が9割の映画を見るといい。
最初はいいけど、2ロール目からラストまで、ほんとに詰まらない)

逆に言うと、長編には主人公の内的な話が不可欠なのだ。


友達や恋人とのつきあいを考えよう。
ただ一回だけのパーティーと違う長いつきあいでは、
内面的な話が不可欠だろう。
自分の内面もさらすし、相手も内面をさらす。
いきなりドン引きされないか探り探りしながら、
次第に深い内面の繋がりを持つことが、
深いつきあいというものである。


映画も同じだ。
外的話だけでは、表面的なつきあいでしかない。
人間を描こうとすればするほど、内面に立ち入る必要があるのだ。

その人の内面を見るということは、
性格、考え方、過去などを知り、
悩みや望みや夢や後悔を知ることだ。
(知れば知るほど、共感はすすみ、感情移入の燃料になる。
これが即感情移入ではなく、あくまで共感だ。
感情移入は、共感しなくても起こる)
ただ、それを履歴書のように出されたってよく分からない。
クラス替えの自己紹介では、興味を持つ程度だ。
それから一緒にいろんなことをしていくうえで、
徐々に内面のことを知っていくものだ。
色んな場面で、色んな面を知る機会があるのである。
(ところで、リアルなドキュメントでは、なかなかその瞬間は訪れない。
劇的なドラマに比べ、内面の移り変わりや見え方も地味だ。
劇的なドラマとは、逆にリアルよりも、内面が分かりやすく描かれるもののことをいう)



例えば、外的話を、クラス一のかわいこちゃんとつき合うこと、
という最終目標のラブストーリーを考えよう。

どんなに変なシチュエーションだろうが、
どんなに変な道筋をたどろうが、
おそらく45分持つことはない。
飽きてくる。

飽きずに話に入り込むには、
主人公への感情移入が不可欠だ。
変なシチュエーションで、知らない人が、
どんなに必死で問題を解決しようとしていても、
感情移入が発生しない限り、他人事だ。
他人事では、長編は持たない。

主人公への感情移入は、
これまで何度か書いているとおり、
「我々と同じところのある人間だ」ということを、
我々が発見することだ。
外面的なことではなく、
主人公の内面のことに、である。

内面的に安定している人には、
内的な危機はない。
それは人間ではない。
人間である限り、必ず内面は揺れている。
悩みがある。夢と現実の不一致がある。
つまり、内的問題を抱えている。


ラブストーリーの例で言えば、
主人公の男は、完全無欠のモテマンではなく、
内面的に問題を抱えた、たとえばコンプレックスの強い内向的な男だ。

外的話、彼女をゲットすることは、
外的話だけでなく、
彼の内面的な問題の克服、つまり自信を持つこと、
という話と表裏一体となる。

これが映画だ。

内定話と外的話が重なりあって、
はじめて映画は映画たりえるのだ。


外的問題の解決と、内的問題の解決が同時進行なのだ。
主人公の前に問題があり、それを解決しようとするとき、
外的話の過程と、内的話の過程、どちらかを描くとよい。
勿論、同時でもよい。
理想は、バラバラに思われた両者が、いいところで同一のものになることだ。

内向的な男のラブストーリーでは、
彼女に恋をした(外的話)ことは、
内気の克服が必要(内的話)なことを意味する。

ここでご都合な展開にすると詰まらなくなる。
彼はいかにして、自分の内気を自力で克服するか、
が内的に面白いストーリーになるからだ。

(多くのこの設定のラブストーリーが、
面白そうなのに傑作になれないのは、
内気の克服のドラマを書くのが非常に難しいからだ。
何故なら、ライターは皆内気だからだ)

この内気を克服するために、彼女とデートしたり、
一緒に何かをすることで、面白い話を書くことが、
この外的話と内的話を同時に、またはバラバラに進行させることである。



外的話は、短編なら切れのある異常な話が可能かも知れない。
しかし長編は、必ず内的話がないと詰まらない。
これは経験則だ。
るろうに京都大火やゴジラは、外的話ばかりで、
人間ドラマ、すなわち内的話がなかったのだ。

あなたがどんな新規で面白い外的話を思いついたとしても、
それはキン肉マンにすぎない。

内面の話とうまく連動させ、なおかつ深い話になって、
はじめて映画である。
posted by おおおかとしひこ at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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