観客はおもしろい話を求めている。
勿論、好きなスターが出ていたり、凄いビジュアルがあると良かったり、
原作の映画化に毎回失望しつつも、今回はいけるのではと期待したりする。
しかし、ほんとうはおもしろい話が見たいだけだ。
笑って、泣いて、人生の深淵に少し触れるような、
みんなと共有したいような、或いは自分のなかだけで大事にしておきたい、
大切な人にだけはこのおもしろさをわかってほしい、
自分の映画鑑賞の歴史に残るような、
おもしろい話を見たいだけなのだ。
にも関わらず、これだけおもしろくない映画が氾濫するのは何故なのか。
簡単だ。
おもしろい話をつくろうと思っていない送り手ばかりだからだ。
(送り手と作り手は、違う組織である)
売れる映画をつくろうと思っているからだ。
受け手と、送り手の間に、
いま、深くて大きな、ギャップがあるのだ。
この構造の登場人物は、三人いる。
作り手、送り手、受け手である。
理想の関係は、
作り手と送り手がタッグを組み、
面白さについて白熱した議論をかわすことだ。
古典的な、作り手のオナニーを回避し、
皆が楽しめるエンタテイメントになるよう、
客観性をもって議論することが理想だ。
(客観性は、マーケの統計資料は二次資料に過ぎず、
自分の世の中の時流の読みが一次資料のはずだ)
分かりやすい/分かりにくい、深い/浅い、おもしろい/おもしろくない、
などが議論の軸になる。
そのために、どんな題材を、どう調理して、どうまとめるかを議論するのが理想である。
そうやってつくって流通した作品を、
受け手が自由に、おもしろい/おもしろくないと評価するのが健全だと思う。
しかし、昨今はこの理想が崩れている。
むしろ、ない。(あるのなら、大至急ご連絡を!)
問題は、作り手の才能がないこともあるが、
送り手だと思う。
(何故ならひとつのプロジェクトで、
全体の意思決定を作り手ではなく送り手がするからだ)
送り手がいつの間にか、売れそう/売れなさそうを基準にして、
おもしろい/おもしろくないを作り手のせいにしてしまった、
変な分業のせいだと僕は考える。
送り手は、いつの間にかスポンサー(出資者)の顔色を伺うことだけが仕事になり、
一番大事な「観客がおもしろいと思うこと」から逃げている。
製作委員会方式がその最大の癌だ。
素人に出資させるから、送り手は出資者の顔しか見ず、
観客を見なくなるのだ。
送り手が「観客として面白いからこれは売れる」という確信が、
素人出資者には通用しない、が癌かも知れない。
あるいは「今すぐには売れないかも知れないが、必ず評価されるもの」に、
売れる保証をつけない限り、素人出資を受けられなくなったことが原因かも知れない。
(勿論この状況を苦々しく思っている人は沢山いて、
それが「桐島、部活やめるってよ」に沢山投票したことは明らかだ)
映画一本つくるには、1億から3億かかる。大作なら10億だ。
よく言われるように、映画は3倍儲けてやっとペイというビジネスだ。
どう考えてもハイリスクだから、普通はリスク分散をする。
10本トータルで儲けよう。外れたものは当たったもので賄おう、
という考え方だ。
今、不景気である。
そんな悠長なビジネスはなく、一本で儲けなければ駄目だと言われる。
誰だって、バッターボックスに立ってください、その代わり100%ホームラン打ってください、
なんて出来る筈がない。
だから、みんなシンプルなことが分からなくなっている。
より面白いものをつくればいいだけなのに。
売れる/売れないでひびっているのは、
ホームランを打てるか打てないかでびびるのと同じだ。
どういう球をどう打つかを考えない限り、バットにボールは当たらない。
原作押さえたから売れる、人気芸能人押さえたら売れる、
という素人出資を騙す詐欺を、送り手はずっと続けてきた。
素人出資者もそろそろ気づくだろう。
それそもそも面白い映画なの?と。
おもしろい/おもしろくないを判断出来るのは、
圧倒的な、受け手としての豊かな経験が必要だ。
そして、計画(脚本)から上がりを想像し、
それが最終的におもしろい/おもしろくないことを、
想像する力が必要だ。
今送り手にその力が十分ないから、今の邦画は詰まらないのだ。
どのプロデューサーに相談しても、
その企画は面白いと思うけど、スポンサーから金を引き出せない、
と言われる。
なぜだろう。
観客は、金を引き出すかどうかより、
おもしろいかどうかに関心があるはずなのに。
現在は、おもしろい映画がつくりにくい、未曾有の時代だと感じる。
業界の構造が一度転覆しない限り、
あなたはおもしろい邦画を見ることが出来ないかも知れない。
(テレビドラマのほうが、深夜に無茶をやっていて、
なんだか羨ましい)
単純に、作り手、送り手、受け手で考えよう。
受け手は、おもしろいものが欲しい。
作り手は、おもしろいものをつくりたい。
送り手は、利益を最大化して、なおかつ次の市場への投資になるような、
おもしろい作品をチョイスして受け手に届けるはずだ。
その送り手が、今受け手を把握していないのだ。
ちなみに、統計など参考にならない。
統計を取るまでもなく、現場で市場を見ていない送り手などあり得ない。
統計は統計の取り方で既に現実をどう見るかを規定している。
どう見るかからが、市場を見ることだ。
規定の見方からでは、市場の次は見えない。
さて。
ということで、僕はおもしろい話を思いついた。
おもしろすぎて、噂が噂を呼び、
火がつくのがすぐではないが、必ず売れる企画だ。
だって面白いから。
もうすぐどこかで陽の目を見せます。
そのときはここでも発表します。
送り手の悲惨な仕組みに、作り手がいびつに合わせるのではなく、
作り手と受け手が、おもしろいという幸せな関係を持ち、
それを送り手が「ベストな形で流通させてください」という関係を、
つくっていこうと思います。
2014年08月18日
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