2014年08月19日

サブ人物にも外的話と内的話がある

前回の話は、中心に描く主人公について、
外的話と内的話がある話だった。
それは既に二本のストーリーラインがある、ということになる。

そして、よく出来た映画は、
サブの登場人物にも、外的話と内的話があるものである。


例えばラブストーリーなら、
男と女に、それぞれの外的話と内的話、よっつのストーリーラインが走る。
バラバラに進行したり、絡んだりする。
男の外的話の展開が女の外的話に影響したり、
男の外的話が女の内的話に影響したり、
女の内的話が女の外的話に影響したりする。
これらはストーリーラインの原則
(焦点、ターニングポイント、絡み)と同じだ。

分かりやすくするため、
男の外的話と女の外的話をおおむね一緒にすることが多い。
呉越同舟のように、強制的に同じ目的を持たせるのだ。

高校生の話なら、文化祭委員に二人がなったり、
モンスターパニックなら、一緒に逃げる羽目になったり、
社会人のドラマなら同じチームかライバルチームになったりする。

同じ外的話に二人をまきこみ、強制参加させることが多い。
とはいえ違う二人だから、それぞれの事情や立場や目的や動機があり、
微妙に二人の外的話は異なることになるのだが。
(感覚的には1.5本みたいな感じ)

その外的話を進行させながら、二人の内面をじっくり描いていくのがラブストーリーのテンプレだ。


ストーリーラインだから、
必ず、はじまり、展開、終わりの構造をもつ。
初期設定、事件、その対応、事態の急変とその対処(何回か繰り返し)、
クライマックス、結末をもつ。
外的話は外的な変化(勝利、戦争から平和へ、など)をし、
内的話は内的な変化をする。

社会人ラブストーリーなら、
とあるプロジェクトを成功させるのを外的話にし、
たとえば男女は同じチームになり、成功するまでを描き、
その過程で二人の内面が変化していく話などを思い浮かべるとよいだろう。

ライバルチームのすっぱ抜きなどのイベントで、
男または女の内面が暴露され、それが何かの事件に発展する、
とか、内面のちょっと変化ゆえに徹夜で何かを仕上げる、
などの、内的話と外的話は、巧みに影響しあって進行するものだ。



ストーリーラインの設計をするうえで、
絡み合いや展開を考えることは比較的容易だが、
忘れているストーリーラインがあることが結構ある。

典型的なのは、主人公の内面の変化を描けていても、
ヒロインの内面の変化がよく描けていない、などだ。

大抵は、二本までくらいしか、ストーリーラインはちゃんとした形に書けない。
これをリライト段階で、すべてのストーリーラインをきちんとした、
はじまり、展開、終わりを持たせるのがよい。


勿論、ラブストーリーでも、他の話でも、
主人公とメイン登場人物全てに、
外的話と内的話をつくる必要性はある。


僕は映画では、メイン登場人物は5、6人だ、
という経験則をあげているが、
理論上は計10から12本の、
ストーリーラインがあるということになる。

普通はそこまで全部をきちんと書くことはない。
外的話で呉越同舟に一本化したり、
いくつかのブロック(一番あるのが敵味方のふたつの陣営)にわけたり、
サブ人物の内面的変化や影響は、メインの人物よりも小さな話になる。

しかし、「トッツィー」というコメディの脚本は、
サブ人物全てに外的話と内的話が用意されている、
極めてよく書けた作品だ。
(主人公、ヒロイン、ヒロインの父、医者役、主人公の隣人の女、
全てに外的話と内的話が用意されていて、絶妙に絡み合う。
主人公の同居人の男、ヒロインの不倫相手には内的話がないため、
これらはメイン登場人物ではない)
この編み物をまずは見て楽しみ、出来ればストーリーラインの構造を把握し、
出来ればこのような脚本を書くのが理想だろう。

コメディだから、誇張して極端に出来るからかも知れない。
逆に、劇的変化は、コメディこそやりやすい。


もしあなたのストーリーが何か物足りないのだとしたら、
サブ人物の内面的変化が、
観客が満足いくまできちんと描かれていないかも知れない。
ただラストに「変化後」をつけ足すだけでもいいこともあるが、
殆どは、その内的話と他のストーリーラインとの絡みをつくり、
内的話ごとリライトしたほうがよい。

(そのため他のストーリーラインが割りを食って…などは、
リライトでよくあることだ。だからリライトの際は、
「このリライトは○○の内的話を一本ちゃんと通すことだ」
とリライトの目的を決めてかかるとよい)


複数の外的話と内的話が絡み合う例として、
ドラマ版「風魔の小次郎」を上げないわけにはいかない。

小次郎、壬生、姫子、蘭子の四者に関しては、
外的話と内的話のストーリーラインが完全にある。

武蔵は外的話(司令官の立場)がやや弱いがそれ以外はほぼ完全だ。
(ここは反省点)
竜魔については、内面を見せないようにしている、という内的話がある。
最終回、わずかながら変化が覗いたので、これも完全である。

陽炎についても内面を見せないようにしているため、
その完全な内的話は描かれることはなかったが、
最終回のインサートで、快楽的に相討ちを求めている、
という内的話を覗かせている。
(勿論このインサートは、小次郎と武藏の対決はこのまま行けば相討ちだ、
という外的話を誘導するためにあり、両者を兼ねた場面だ)

夜叉姫や八将軍(陽炎をのぞく)については、
「内的変化をしなかったがゆえに、死ぬこととなった」
という、典型的な悪役の外的ストーリーラインを辿らせている。

絵里奈は悟っていて、
内的話を出来るだけしないようにドライに演出したが
(死ぬことは原作上避けられないし)、トモダチのサインなど、
小次郎がいなければしなかっだろう内的変化を遂げたようだ。

劉鵬、小龍については、活躍回で外的話と内的話を終えたのが残念だ。
後半もう少しあってもよかった。(そんな余裕はなかったけど)
霧風は、内的話をもう一度やるべきだったかも知れない。
(11話のラスト、風林火山の完成で終わっているといえばそうだが。
今思いついたのだが、12話の乱戦で、小次郎と背中合わせになり、
「無茶をして俺に迷惑をかけるなよ」と強がる霧風に襲いかかった敵を、
小次郎が風林火山でぶったおし、霧風がフッと笑う、なんてシーンがあるとよかったなあ)

麗羅は内的話のなくて良いキャラだったが、
9話の初陣で「ぼくが、初めて人を殺した」という台詞を加えたことで、
実に内面が豊かに見えている。



風魔は、漫画原作をうまく人間ドラマに変換した、
というように言われる。

それは即ち、人間ドラマ=内的話のストーリーラインということに他ならない。
原作と大筋外的話は同一で、
原作に内的話はないからだ。

勿論、主人公小次郎の内的話には、最も比重を置いている。
風魔とは小次郎の物語である、といってもいいほど、
物語の、葛藤(コンフリクトでも、内面的なという意味でも)の、
感情移入の、話題の、常に中心にいるようにしている。
(原作がそうではないため、そこに苦心したのは監督メモに詳しい)

しかし、それだけでは物語にならない。
姫子の内的話(主に1話、9、10話)や、
竜魔、劉鵬、霧風の内的話との影響があって、
一方夜叉サイドの壬生や武藏の内的話があって、
ふたつを要のように繋ぐ絵里奈の内的話があって、
それらが徐々に影響しあうように外的話があって、
はじめて編まれた物語となるのだ。



人は、社会に生きる生き物だ。
登場人物は、他の登場人物に影響を受け、
行動や決断を変えたり(外的話)、考え方や気持ちを変えたり(内的話)する。
あるいは、行動や決断や考え方や気持ちで、相手に影響を与える。

それがメインだろうがサブだろうが、原理は同じである。
(メインとは、外的話において、最も事件解決の中心になる人のことだ。
だから必然的に出番が多い。そして外的話だけではロボットなので、
内的話が用意されるのだ)

その面白い影響のしあいを時系列で描くのが、
物語なのだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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