2014年08月19日

「おもしろい」は主観である

客観的になれ、とか、オナニーはよくない、などは、
作家志望の人がよく言われる忠告だ。

しかし、客観的に面白い話は、この世にない。
面白いとは、主観だ。


初心者は、「客観的に面白い話にしよう」と勘違いして、
逆に面白くない話を作ってしまう、という逆説的な話。


本当に面白い話は、
主観的に面白い。

何故なら、鑑賞とは「一人でその世界に入り込むこと」だからだ。


「客観的に」世界に入り込むことなどない。
物語の世界に入る時は、常に一人である。
一人の観客(読者)対、世界なのだ。
その一人を世界の奥底まで引きずりこむ魅力は、
その人の魂をとりこにするものだ。
魂から見て、その人は世界に引きずり込まれるのだ。


「主観的に引きずり込まれる人」が、
世界に数人ではなく、出来るだけ多い作品が望まれている。
「世界に数人しか引きずり込めない物語」より、
「出来るだけ数多くの人が引きずり込まれる物語」を目指すべきだ。
それは商売上の問題である。
(商売を無視した芸術なら、狭き門でもOKかもしれない。
ただ、より多くの人を引きずり込むほうが、僕はよい作品だと思う)

引きずり込まれることの最大公約数をさぐることが、
客観的に作品をつくることではない。
多くの人の共通部分は、数が増えれば増えるほど小さくなってゆく。
それでは、多くの人が理解はできるが、どの人にとっても浅い作品になるだけだ。


どんな人でも、深く深く引きずり込まれることとは、どういうことか、
を考えた、それを実践した者だけが、理想の物語を書けるのだ。
(「サイコ」の感情移入の記事でその一端を示した)

それは、人の表面に現れることは決してなく、
マーケの統計にも表れない。
もっと言葉にしにくい直観的な感情だ。


人類の集合的無意識、という言葉でぼくはこれを表現する。
すぐれた作品は、誰もが持つ感情に触れ、
それに一端触れた人を、(一人の状態で)引きずり込むものをいう。


誰にとっても深い作品を書け。
誰が主観的に読み込んでも、引きずり込まれる作品を書け。
「自分だけが引き込まれている」という共犯関係の錯覚を持たせよ。
それを誰にとっても味あわせている作品が、ほんとうに良い作品だ。

「おもしろい」は主観である。
客観的におもしろいことを考えろ、という忠告者の言葉は、
「角をまるめて、誰にとっても浅くすること」ではない。
誰にとっても、主観的に面白い題材、展開、テーマを選びとり、
全員を引きずり込むことを言う。


物語に客観的方程式は存在しない。
法則でつくりだされたものは、養殖の魚のように、
イキの悪いぼんやりした味になる。
それは最大公約数の小さな浅いものだ。
(大体プロデューサーや編集者は、テンプレに当てはめて理解しようとする。
テンプレは分析には便利な道具だが、創作とはテンプレにはめることではない。
もちろん、テンプレの方が面白くなるのなら、創作は譲るべきだが)



あなたが主観的に心底面白いと思う作品を書くべきだ。
「心底面白い」基準が、あなたを含めた数名に過ぎないか、
人類全員かの違いだけの話だ。

客観性がないとは、その判断基準のことを言うのであり、
物語内容のことではないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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