客観的になれ、とか、オナニーはよくない、などは、
作家志望の人がよく言われる忠告だ。
しかし、客観的に面白い話は、この世にない。
面白いとは、主観だ。
初心者は、「客観的に面白い話にしよう」と勘違いして、
逆に面白くない話を作ってしまう、という逆説的な話。
本当に面白い話は、
主観的に面白い。
何故なら、鑑賞とは「一人でその世界に入り込むこと」だからだ。
「客観的に」世界に入り込むことなどない。
物語の世界に入る時は、常に一人である。
一人の観客(読者)対、世界なのだ。
その一人を世界の奥底まで引きずりこむ魅力は、
その人の魂をとりこにするものだ。
魂から見て、その人は世界に引きずり込まれるのだ。
「主観的に引きずり込まれる人」が、
世界に数人ではなく、出来るだけ多い作品が望まれている。
「世界に数人しか引きずり込めない物語」より、
「出来るだけ数多くの人が引きずり込まれる物語」を目指すべきだ。
それは商売上の問題である。
(商売を無視した芸術なら、狭き門でもOKかもしれない。
ただ、より多くの人を引きずり込むほうが、僕はよい作品だと思う)
引きずり込まれることの最大公約数をさぐることが、
客観的に作品をつくることではない。
多くの人の共通部分は、数が増えれば増えるほど小さくなってゆく。
それでは、多くの人が理解はできるが、どの人にとっても浅い作品になるだけだ。
どんな人でも、深く深く引きずり込まれることとは、どういうことか、
を考えた、それを実践した者だけが、理想の物語を書けるのだ。
(「サイコ」の感情移入の記事でその一端を示した)
それは、人の表面に現れることは決してなく、
マーケの統計にも表れない。
もっと言葉にしにくい直観的な感情だ。
人類の集合的無意識、という言葉でぼくはこれを表現する。
すぐれた作品は、誰もが持つ感情に触れ、
それに一端触れた人を、(一人の状態で)引きずり込むものをいう。
誰にとっても深い作品を書け。
誰が主観的に読み込んでも、引きずり込まれる作品を書け。
「自分だけが引き込まれている」という共犯関係の錯覚を持たせよ。
それを誰にとっても味あわせている作品が、ほんとうに良い作品だ。
「おもしろい」は主観である。
客観的におもしろいことを考えろ、という忠告者の言葉は、
「角をまるめて、誰にとっても浅くすること」ではない。
誰にとっても、主観的に面白い題材、展開、テーマを選びとり、
全員を引きずり込むことを言う。
物語に客観的方程式は存在しない。
法則でつくりだされたものは、養殖の魚のように、
イキの悪いぼんやりした味になる。
それは最大公約数の小さな浅いものだ。
(大体プロデューサーや編集者は、テンプレに当てはめて理解しようとする。
テンプレは分析には便利な道具だが、創作とはテンプレにはめることではない。
もちろん、テンプレの方が面白くなるのなら、創作は譲るべきだが)
あなたが主観的に心底面白いと思う作品を書くべきだ。
「心底面白い」基準が、あなたを含めた数名に過ぎないか、
人類全員かの違いだけの話だ。
客観性がないとは、その判断基準のことを言うのであり、
物語内容のことではないのだ。
2014年08月19日
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