2014年08月21日

続・小説のススメ

小説を書け、というのは何度か書いてきている。
純粋に「小説を書く」のは才能がいると思うが、
脚本を書くことのトレーニングに使う、
という方法論でだ。

ある物語を表現するとき、
シナリオ形式より小説のほうが、楽なことがたくさんある。
シナリオ形式は、小説形式より難しい、と僕は断言しよう。
(読者に要求するリテラシーも、シナリオの方が遥かに複雑だと思う。
映像表現として成立することを文字で書くからだ)

今小説を試しに書いているのだが、
そこからいくつかの例を。



A主人公(10)
Bそのお供(大人)
C幼稚園児(5)
だとしよう。

小説版ではこのように書いてみた。

さてどうしたものか、とBが思案するより早く、Aはその子(C)に
話しかけていた。Aには、誰とでも友達になる奇妙な力がある。Aは
たたたと走ってきて、Bの手を引きその子と会わせた。

これをシナリオで書くのは困難である。
Aの「誰とでも友達になる」さまを、Cとの会話で表現しなければならないからだ。
はじめまして、な会話から入り、なんとなく友達になって笑う、
までの会話を、この文章並に短く表現することは不可能だ。

逆に、その会話が具体的に上手く書ければ、
Aの魅力を書ける筈だ。

「やあ」からはじまって、
「すっかり友達みたいだね」で終わる自然な台詞劇に、
果たして何行必要だろう。
数ターンでは終わらないやりとりの回数があるだろう。

「風魔の小次郎」第二話では、
絵里奈と小次郎が友達になる場面を書いたが、
そこでは小次郎の魅力の一部が出ている。勿論絵里奈のキャラクター性もだ。
風を怖がる絵里奈に、少年忍者入門的な指をなめて風を知る、
なんて粋な技を使っている。つまりこれくらい「何か特別なもの」を
ネタに持ってこない限り、簡単に友達になることを描くのは難しい。


あるいは、Bの見た目から表現する省略法を使ってみよう。

Bが見守るなか、AはCの元へ走って行き、話しかける。
Bにその内容が聞こえる距離ではないが、二人は笑い始める。
B「本当に、あやつ誰とでも友達になる才能があるなあ」
Aはたたたと走ってきて、Bの手を引きCに会わせる。

つまり、ちょいちょいBのアップを挟み込み、
カットバックでAとCが仲良くなる絵だけを見せる方法だ。
カットバックさせるため、Bのアップ後には時間を巧みに飛ばすことが可能だ。

AがCに話しかける→それを見てるB→(話し込むAとC→それを見てるB)
→笑いあってるAとC→それを見てるB

のような編集になるはずである。

Bの説明台詞が必要かどうかは、前後の文脈による。
ないのが理想だが、これ抜きでその内容を示すには、
これ以前に誰とでも友達になる場面を前ふらなくてはならない。
たとえば駅員さんと友達になり飴をもらったり、
道行く猫と友達になったりという場面を描くなどしないと、
このBの台詞が、観客の思いと一致しない、
浮いた台詞になってしまう。
(一致しないから、説明台詞になる)

「Aには、誰とでも友達になる奇妙な力がある」は、
小説の地の文ならではの、特別な表現だ。
この一文で、簡単にセットアップが出来てしまうのだ。


我々がプロットを構想するとき、
すなわち物語の具体がまだ完全に具体になっていないとき、
このような一文をつい書いてしまい、
執筆のときに困ることがある。
地の文ならではのセットアップは、
映像表現と相性が悪すぎる。

逆に、脚本とは、抽象を具体で表現することだ。



次の例。

それは限りなくグレーに近いブルーの色だった。Bの気持ちの色をしていた。

このような小説的表現を、シナリオ形式には変換できない。
シナリオではこの表現は捨てるしかない。

グレーに近い青い色のものがそこにあるだけで、
それがその人の気持ちを表現するなんてことは、
写真表現にはない。
配色は、気持ちのよさで行われるものであり、
「意味」で配色されるものではないからだ。
青い服を着てる人が全てブルーな人を表現することもなく、
気持ちがブルーになったら青い服に着替えることもないし、
ブルーな気持ちの人はどんな色の服を着ていても、
その人の芝居や文脈で表現するものだ。

無理矢理変換するならば、

それはグレーに近いブルーだ。
B「まるで俺の気持ちの色だ…」

これが下手なシナリオであることは明らかだ。
余程の自虐タイムの文脈なら、ギリギリあるかも知れないが、
日常の文脈でこれはないだろう。

人の気持ちを「配色」で表現するなら、普通は天気だ。
どんよりした曇り空、静かに降る雨、などで表現する。
そうすると、画面全体がグレーブルーのトーンでつくることが出来るからだ。

小説の表現では、背景を書かず、そのブツだけに色をつけることができる。
背景は存在しない。注目したその色で意識を染められる。
対して映像は、画面内の全ての空間に色がついている。
フレーム内のトータルコーディネートが表現だ。
憂鬱な気分を示したいなら、空間全体で表現する。

そもそも、ブルーグレーの何かがそこに置いてあれば、
普通は「綺麗な色」とか「オシャレな色」という印象のほうが強い。


例3。

少なくとも、都会では妖怪は絶滅した。

これを映像表現に置き換えることは困難だ。
例えば都会の絵(新宿三丁目の交差点?銀座?どこを都会のワンショットとする?)
を背景にし、そこに妖怪たちを歩かせ、
次々にOLで消していく「説明的な絵」で表現するしかないだろう。
不在を表現するのは、映像では困難だ。
(逆にいうと、不在は概念なのだ)
この絵だとしても絶滅の可能性がある、つまり一見絶滅したかも知れないが、
どっこいここには生きていた、という前ふりに使われやすい。
完全なる絶滅、ではなく、見えている範囲内での絶滅しか、
絵では表現出来ないのだ。

或いは、妖怪博士的な人にこの台詞を言わせるかだ。
既に調査した人に言わせれば、信憑性が高まる。
しかしニホンオオカミの絶滅と同様、
確認をすることは困難だ。
第一、よくあるパターンはこの妖怪博士の認識が間違っていて…とか、
妖怪博士は嘘をついていて…など、
ひっくり返される前提として使われやすい。

絶滅は概念であり、具体表現を持たない。
(恐竜の絶滅だと、よく大量の死体が転がってる絵が使われるけど、
ニホンオオカミの絶滅ではそんな絵は使わない)




みっつほど例を挙げてみた。
法則を抽出するほど経験を積んでいないので、
ケーススタディでしかないが、
小説は、概念を扱える、
シナリオは、具体で表現するしかない、
と言えそうだ。

芝居や絵の組み合わせ、すなわちモンタージュでは、
説明することが非常に難しいことは経験的に分かっている。
説明とは具体的現象ではなく、概念だからだ、
と説明できそうだ。


あなたの考えている話は、
シナリオより小説の方がより楽に表現できるかも知れない。
「おはなし」の最適表現は、シナリオ形式ではないと、僕は思う。
シナリオを書くには、映像表現で話を表現する、
特殊能力が必要なのだ。

小説の読者は、文章から光景を想像するだけでよい。
しかし、シナリオの読者は、文章から映像モンタージュを想像し、
そこに入り込んでいる観客にならなければならない。
その差だ。


あなたにシナリオ的文章力が足りないのなら、
一端小説形式に起こしてから、
改めてシナリオ劇に翻案するほうがよいかも知れない。
「第三の男」を書いた、グレアム・グリーンはそのようにしたそうだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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