2014年08月22日

編集と時系列

編集とは、時系列をいじる行為でもある。

語りの順番は、
何も馬鹿正直に順番で話す必要はない。

重要なストーリーラインを中心にし、
適宜省略や必要なときの挿入
(フラッシュバックまたはカットバックが多い)
をすればいいだけなのだ。

勿論、あえてこの順番で語るから面白い、
ということもある。
語る順番を考えることは、馬鹿正直な小学生の報告から、
大人の語りへ、一歩踏み込むことになる。

語る順番を変えることで何が生まれるのか、見てみよう。


「刑事コロンボ」を例にとろう。
(若い人は「古畑任三郎」を思い浮かべればよい。
古畑シリーズは、大枠はコロンボ日本版というパクり企画だ)


このシリーズは、全てがこの時系列で語られる。

1殺人
2発覚
3コロンボが現場に来て、尋問開始
4次第に追いつめていく
5決定的証拠→解決

通常のミステリーの語り順は、
2345→1
(1は推理の内容や自白の内容としてフラッシュバックされる)
である。

ミステリーとは、既に起きてしまった過去をさぐることの面白さ、
であると言ってもよい。
謎や焦点は必ず過去にある。
殺人事件ではない歴史ミステリーなども同じくだが、
殺人ミステリーの話だと、
全体の焦点は「犯人は誰か」(そしてトリックは)だ。

分からないことを、分かる面白さだ。
この意味で、作者と観客は、謎と解明の間で駆け引きをしている。

ところが、コロンボはこの順を変えてみせた。
時系列順に並べたのだ。
すると、焦点が変わってくる。
追われる者がどうやって捕まるか、になる。

物語の構造が、解明ではなくチェイスになるのだ。
追われる者が逃げ、追う者が追い詰める、
狩りを楽しむ話になる。
作者と観客の間の駆け引きは、狩りの局面がどうなってゆくかという展開にある。


仮に、ミステリー型で書かれた話を無理矢理コロンボ型に編集してみよう。
謎と解明の駆け引きの構造の話が、急に狩りの話になる。
(細かい齟齬はとりあえず無視)
逆も然り。
コロンボ型の話をミステリー型に編集し直すと、
狩りの話が、謎と解明の話になる。

語る順番とは、すなわち主題の構造でもあるのだ。


ちなみに、刑事コロンボは、謎と解明の伝統的ミステリーに照らせば、
非常に脇の甘い解決になっているらしく、そこが批判の集中するところらしい。
しかしそれは的はずれな批判だ。
狩りの物語として脇が甘いかどうか、なら批評の意味がある。
それを謎と解明の物語の基準で語るのは、
少年漫画を少女漫画の基準で批評するようなものだ。
(もっとも、リアリティーが甘い、という批評ならやむなしなのだがね)


編集、即ち時系列の順を変える行為は、
主題の構造を変え、物語の質を変質させる可能性がある。
だから面白いし、だから怖い。

あなたは何を語ろうとしているのか。
それは、その時系列で語ることが最も効果的(正しく伝わり、かつ面白く伝わる)か、
検討しているだろうか。

初心者は、ときに困りながらシーンを繋いでいる。
その時系列の順番が本当にベストである、という確信がなく。
そういうものは、必ず編集で揉める。
編集で時系列を変えてみて、いい悪いを短絡的に判断する羽目になる。
それが作品の本質を変えてしまったり、
一部と全体で別の本質のパートが生まれて、
作品が統一体になっていない違和感がつきまとう。

それは、脚本段階で練られていないからである。

プロデューサーは編集の相談なんかに乗ってくれない。
ただ○分カットしてくれ、と言うだけだ。
(ときに主観的な意見をいい、混乱させることすらある。
本当に客観的な意見を言えるプロデューサーを、僕は信用する)

間違った切り方や、間違った時系列で語られているかどうか俯瞰出来るのは、
客観的な脚本家、編集マン、監督、
そして出来上がったあとにブーイングする批評家、
そして言葉には出来ないが違和感をもつ全ての観客だけである。



訓練は、短いシナリオでやるとよい。

長編でやればやるほどカオスになる。
よい手術は、なるべくメスを入れないことなのだが、
長編では、ぐっちゃぐちゃに切り刻んでやっぱダメでしたになりがちだ。
そのカオスを経験する前に、
短編で訓練を積もう。
5分や10分程度なら、
頭の中でいくらでも時系列を入れ換えて実験できる。

重要なことは、その入れ換えやカットや復活をしたとき、
本質がどのようなものになるか、という「予想」だ。
部分的な予想は誰にでも出来る。
狩りの物語が謎と解明の物語になってしまうだろう、
などのような、本質の変質を予測することである。
(たいして変わらない、という予測も大事だ)

それを実行前に想像することが、
リライト力を最も鍛えることが出来る。
慣れないと頭がヘトヘトになる。

そして、実際にその入れ換えなどをし、
一気読みをして印象をチェックする。
元と比べて良くなったか、ダメになったか、
本質はどう変わったか、それは予測とどう違ったかをチェックするのだ。
これも慣れないと頭がヘトヘトになる。

出来れば、考えうる順列組み合わせを全て試してもよい。
(某アホな広告の人は、これら全部を試すことが編集だと思っている。
15秒1本のために8時間分カメラを回し、編集を現場でやり、
後日の編集で150タイプつくるという。さらにフォント違いで80タイプ追加するらしい。
予測という能力が0の、プロとは言えないドシロウトだ。
まあ不景気でその資金もなくなったのだが)

それをやることで、偶然のマリアージュがあることも知ろう。
しかし、その偶然のマリアージュが現れるまで編集を繰り返すのは、
切り株の下で永遠に兎が転がることを待つことに等しい。
我々プロは、そのマリアージュを予測して、実際に起こすことが仕事だ。
つまり、予測力を鍛えるのだ。



編集とは、時系列をコントロールすることである。
脚本の執筆時、構想時にも同じことが出来る。

むしろ、既に撮影された素材をいじるより、
いくらでも台詞や芝居を直しながら時系列を変えることの出来る、
脚本段階での編集が、一番合理的だ。

この本質を語るために、
これが最適解である、という時系列の順番が、
優れた構成と言われる。

あなたは起きた順番をそのままママに報告するような、
小学生の話を書いているのか。
それとも、点からはじまり線を生み、落ちで落ちるような、
大人の鑑賞に耐えられる、否、大人の魂を引きずり込む、
魅力的な物語を書いているのか。

それは、時系列、すなわち構成でも決まる。
posted by おおおかとしひこ at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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