人は物語に奇跡を求める。
冒頭に起こった事件の奇跡を、
まず人は求める。
それは今の退屈な日常に、
何か面白いことが起こらないかと思っているからだ。
そしてそれ以上に大事なのは、
奇跡的な解決のほうだ。
こじれた問題ほど、
一発で解決しなければ映画ではない。
普通の問題を、そのへんにあるように解決しても、
それはその辺にあるありふれた話であり、
特別楽しみにする話ではない。
例えば「風邪を引く」という問題の解決は、
「栄養とってたっぷり寝る」では平凡な解決法だ。
「以前から気になっていた可愛い後輩が、
栄養のつくものを家につくりにきてくれ、看病してくれ、
何故だかいい雰囲気になる(ついでに風邪が治る)」
が奇跡的な解決法だ。
あとはこれがリアリティーを生むように細心の注意をしてゆけばよい。
あまりによくあるシチュエーションなので、
もはや奇跡的な解決法ではないかも知れないが。
つまりあなたは、鮮やかな問題解決を考え出すプロにならなければならないのだ。
それが刑事物なら、鮮やかな奇跡的犯人逮捕劇を考えつかなければならないし、
それがコンピュータものなら、鮮やかなハッキング逆転劇を考えつかなければならないし、
それが医療ものなら、奇跡的な手術の成功法を考えつかなければならないし、
それがスポーツものなら、奇跡的大逆転をうまく考えつかなければならないし、
それが恋愛ものなら、奇跡的な恋愛成就の方法を考えつかなければならない。
そこが面白いからこそ、映画は華なのである。
それが考えつかない人は、あまり面白くない脚本しか書けないだろう。
解決出来る問題を設定することは当然だ。
だが誰でも思いつく解決の回答がある問題は詰まらない。
誰もが不可能だと思い、
誰もがこれどうやって解決するんだと思い、
こんなこと出来る奴はいないだろうと思わせた所に、
主人公がやって来るものだ。
そして、それを見たときにはさっぱり解決法が分からなかった問題を、
見事に鮮やかに、奇跡を起こすように解決するのだ。
(その必然性を埋めるために前半戦がある)
我々は、一種のアイデアマンである。
物事を解決する、奇跡的な解決法を考えつくアイデアマンである。
2014年08月24日
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