女に縁のない内気な男がモテモテになる奇跡的な解決法や、
ビジネスで絶対成功する奇跡的な解決法や、
世界平和が実現する奇跡的な解決法や、
絶対不可能な罠を攻略する奇跡的な解決法は、
この世にはない。
(あったらみんなやってる)
しかし、映画では必ず奇跡的な解決が待っている。
これは一体どういうことだろうか。
ゲーム型、と僕が呼ぶ解決パターンがある。
「CUBE」「ゲーム」などに端を発するタイプだ。
漫画「カイジ」「デスノート」「ライアーゲーム」も同じく。
その世界独自のゲームルールを設定し、
そのルール内での奇跡的な解決を描くパターンだ。
独自のルールのゲームに強制参加するところからはじまり、
そのルール内でのサバイバル及び勝利が目的になる。
殆どの場合、失敗すれば死が待つ。
強制的なこのゲームのモチベーションをつくるためである。
大抵は限定空間だ。
それは独自のゲームルールが及ぶ範囲をつくるため、
現実と隔離するためだ。
敵はこのルールをつくった張本人であることもあるし、
他のプレイヤーのこともある。(殺し合いまたはレース形式)
作品によっては、この壮大なゲームをつくった理由を問う(「ゲーム」)
場合もあるが、大抵は異常な金持ちの道楽のパターンだ。
(近年、ネット中継の発達によって、それらが中継されるパターンが増えた。
漫画「エアギア」が最初だったかな。「喧嘩屋商売」ではニコ生中継ぐらいやってるだろう。
かつては天下一武道会を例に出すまでもなく、闘技場が必要だったのだが)
この「架空の空間」をつくるのは、
全て「現実の制約を外すため」に他ならない。
つまり、現実では奇跡的な解決法を描くことが難しいから、
奇跡的な解決法を描ける世界をつくってしまえ、
という逆転の発想なのだ。
これは、実は昔からミステリーというジャンルが得意とした考え方だ。
殺人のトリックを暴く、
という一種のパズルを解く過程で、
奇跡的な解決を描いていたのだ。
誰もこのルール内での解決は出来ず、IQ180の天才探偵だけが、
謎を解けたのだ。
殺人犯が劇場型になり、主人公が天才探偵でなくなれば、
殆どゲーム型と区別がつかなくなる。
それでもミステリーは、現実のルール内でやることだけが制約かも知れない。
(物凄い確率が連続したり、現実にないテクノロジーは使えない)
ゲーム型の物語はそれすらも取っ払ってすすむ。
漫画「GANTZ」も前半戦はそのパターンだった。
物語の推進力は、サバイバルと、このゲームの目的の謎である。
容易に考えつくように、一体このゲームは何のためにあるのか、
を焦点とした場合、それに答える面白い解答がないと、
ラストで詰まらなくなる。そして、「GANTZ」はそれをやらかした。
現実の世界のリアリティーでは、
奇跡的な解決法など存在しないから、
架空のルール空間で、奇跡的な解決法を描く。
その意味では、ファンタジーすら、
そのジャンルである。
ファンタジーの場合、奇跡的な解決法の為というよりは、
その世界に逃避したい願望のほうが大きいのかも知れない。
が、映画としてファンタジーをやるならば、
その世界のルールは、奇跡的な解決法のために逆算して存在しなければならない。
「トランスフォーマー」一作目がギリギリ映画になるのは、
「ヘンテコなキューブを走って運ばなければならない」というルールをつくり、
それが主人公の挫折を払拭する、
世界を救う走りの場面をクライマックスに持ってきたところだ。
ロボットバトルが、たった一人の男の全力走で決まってしまうのだ。
外的問題の解決だけでなく、主人公の内的問題の解決の、
双方が走り抜けられるかどうかに集約されるのである。
(2以降にそのような映画的瞬間は微塵もなかった)
「走る」という単純で原始的なシーンが、
奇跡的な解決法となるように、
ゲームのルールを巧みに(マイケルベイなので大味に)設定したと言えるだろう。
さて、奇跡的な解決法を映画内で描くには、
何も壮大な仮想空間をつくるゲーム型ばかりが正解ではない。
人に関わることで、現実の制約を突破することが出来る。
つづく。
2014年08月25日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック