2014年08月25日

奇跡的な解決法2

女に縁のない内気な男がモテモテになる奇跡的な解決法や、
ビジネスで絶対成功する奇跡的な解決法や、
世界平和が実現する奇跡的な解決法や、
絶対不可能な罠を攻略する奇跡的な解決法は、
この世にはない。
(あったらみんなやってる)

しかし、映画では必ず奇跡的な解決が待っている。
これは一体どういうことだろうか。


ゲーム型、と僕が呼ぶ解決パターンがある。
「CUBE」「ゲーム」などに端を発するタイプだ。
漫画「カイジ」「デスノート」「ライアーゲーム」も同じく。

その世界独自のゲームルールを設定し、
そのルール内での奇跡的な解決を描くパターンだ。

独自のルールのゲームに強制参加するところからはじまり、
そのルール内でのサバイバル及び勝利が目的になる。

殆どの場合、失敗すれば死が待つ。
強制的なこのゲームのモチベーションをつくるためである。

大抵は限定空間だ。
それは独自のゲームルールが及ぶ範囲をつくるため、
現実と隔離するためだ。

敵はこのルールをつくった張本人であることもあるし、
他のプレイヤーのこともある。(殺し合いまたはレース形式)
作品によっては、この壮大なゲームをつくった理由を問う(「ゲーム」)
場合もあるが、大抵は異常な金持ちの道楽のパターンだ。
(近年、ネット中継の発達によって、それらが中継されるパターンが増えた。
漫画「エアギア」が最初だったかな。「喧嘩屋商売」ではニコ生中継ぐらいやってるだろう。
かつては天下一武道会を例に出すまでもなく、闘技場が必要だったのだが)


この「架空の空間」をつくるのは、
全て「現実の制約を外すため」に他ならない。
つまり、現実では奇跡的な解決法を描くことが難しいから、
奇跡的な解決法を描ける世界をつくってしまえ、
という逆転の発想なのだ。

これは、実は昔からミステリーというジャンルが得意とした考え方だ。
殺人のトリックを暴く、
という一種のパズルを解く過程で、
奇跡的な解決を描いていたのだ。
誰もこのルール内での解決は出来ず、IQ180の天才探偵だけが、
謎を解けたのだ。
殺人犯が劇場型になり、主人公が天才探偵でなくなれば、
殆どゲーム型と区別がつかなくなる。
それでもミステリーは、現実のルール内でやることだけが制約かも知れない。
(物凄い確率が連続したり、現実にないテクノロジーは使えない)

ゲーム型の物語はそれすらも取っ払ってすすむ。
漫画「GANTZ」も前半戦はそのパターンだった。
物語の推進力は、サバイバルと、このゲームの目的の謎である。
容易に考えつくように、一体このゲームは何のためにあるのか、
を焦点とした場合、それに答える面白い解答がないと、
ラストで詰まらなくなる。そして、「GANTZ」はそれをやらかした。


現実の世界のリアリティーでは、
奇跡的な解決法など存在しないから、
架空のルール空間で、奇跡的な解決法を描く。

その意味では、ファンタジーすら、
そのジャンルである。
ファンタジーの場合、奇跡的な解決法の為というよりは、
その世界に逃避したい願望のほうが大きいのかも知れない。
が、映画としてファンタジーをやるならば、
その世界のルールは、奇跡的な解決法のために逆算して存在しなければならない。

「トランスフォーマー」一作目がギリギリ映画になるのは、
「ヘンテコなキューブを走って運ばなければならない」というルールをつくり、
それが主人公の挫折を払拭する、
世界を救う走りの場面をクライマックスに持ってきたところだ。
ロボットバトルが、たった一人の男の全力走で決まってしまうのだ。
外的問題の解決だけでなく、主人公の内的問題の解決の、
双方が走り抜けられるかどうかに集約されるのである。
(2以降にそのような映画的瞬間は微塵もなかった)
「走る」という単純で原始的なシーンが、
奇跡的な解決法となるように、
ゲームのルールを巧みに(マイケルベイなので大味に)設定したと言えるだろう。


さて、奇跡的な解決法を映画内で描くには、
何も壮大な仮想空間をつくるゲーム型ばかりが正解ではない。

人に関わることで、現実の制約を突破することが出来る。
つづく。
posted by おおおかとしひこ at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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