我々は、物語の中では、必ず奇跡的な解決を示さねばならない。
だが、そんな上手い方法を我々が発明出来ることは希で、
現実で確実にそれが出来るなら、既に我々は億万長者だ。
だから、劇中の問題と解決は、厳密には嘘だ。
勿論、観客もそれを分かって楽しむのがフィクションである。
(ドキュメントのようなノンフィクションでは、その厳密性が問われる。
フィクションで問われるべきは、もっともらしさ、
すなわち「その世界でリアリティーがあるか」の方である)
さて、どのような形にせよ、
問題の設定と解決にはペアがある。
非現実的な設定をし、それを劇的に解決する、
ゲーム型については前項で論じた。
更にそれを現実に近い世界で実現するにはどうすればいいだろう。
僕は、人に関わることだと思う。
つまり、様々な制約条件のパズルを解くという、
客観解を求めるのではなく、
「この人を攻略すればよい」という方向性にもって行けばいいのだ。
どんな難攻不落な組織も、そのボスの人間さえ倒せば勝ちだ。
(逆に、ボスが倒れたら瓦解するように組織を組んでおく)
どんな冷徹な完全犯罪も、犯人が感情的になればチャンスがある。
どんな無理目の美女でも、心の奥底に触れる何かがあれば、心を開くきっかけになる。
要するに、人間ドラマなのだ。
外的な完璧な構図を、内的ドラマで崩していくのである。
(「デスノート」で完璧な筈のキラが崩れたのは何故か?
人間的な、美学に拘ったせいだ。冷静に徹していれば、完璧になれたのだ。
しかし、人間ゆえ完璧は崩れた。そこが人間的な魅力になった)
外的な問題設定は、実は目眩ましなのだ。
余程の外的問題を面白く見せる奇跡的な解決法がない限りは、
人間ドラマとして描くのだ。
しかも、その方が面白くなる。
感情移入によってである。
人の感情は、何にでも出る。
将棋指しにとっては、
一見記号だらけの棋譜に、
棋士同士の苦悩や勇気や決断や後悔が、
ありありと見えるに違いない。
どんな外的なドラマでも、そこに人間の感情が必ず出る。
それを増幅して、見ごたえのある人間ドラマをつくっていくのだ。
その為に必ず必要なものが、コンフリクトである。
映画は、抽象的な原理と抽象的な原理の対決には、絶対ならない。
それは面白くない。
必ず、人間対人間になる。
感情移入対感情移入に必ずなる。
そして必ずどちらかが勝つ。奇跡的な解決法によって。
あっと驚く解決、ぐらいであれば、
感情移入が十分に出来ている話なら、十分に奇跡的な解決法であることが殆どだ。
ジャンプ的な努力を積み重ねていく話なら、
変化球より直球勝負で勝ったほうが面白かったりもする。
(ドラマ「風魔の小次郎」では、ラストは真っ向勝負に拘った。
勝負を分けたのは、想いや絆の大きさだ。
ちなみに夜叉側に強く感情移入した人もたくさんいて、
それはそれで楽しかっただろう)
奇跡的な解決法は、人間ドラマが巧みなら、
実は必要のないものになってもくる。
納得のいく解決だけが、皆の求めるものになってゆく。
勿論、奇跡的な解決であり、人間ドラマ的な解決としても素晴らしい、
真の名ラストが、名作と呼ばれるだろうことに異論はない。
おそらくだが、それは名どんでん返しと呼ばれる筈だ。
(その典型のひとつが、ビリー・ワイルダーの「情婦」だと思う。
これについては既に書いているので、どんでん返し関連を参考にして頂きたい)
2014年08月25日
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