2014年08月25日

奇跡的な解決法3

我々は、物語の中では、必ず奇跡的な解決を示さねばならない。
だが、そんな上手い方法を我々が発明出来ることは希で、
現実で確実にそれが出来るなら、既に我々は億万長者だ。

だから、劇中の問題と解決は、厳密には嘘だ。
勿論、観客もそれを分かって楽しむのがフィクションである。
(ドキュメントのようなノンフィクションでは、その厳密性が問われる。
フィクションで問われるべきは、もっともらしさ、
すなわち「その世界でリアリティーがあるか」の方である)

さて、どのような形にせよ、
問題の設定と解決にはペアがある。
非現実的な設定をし、それを劇的に解決する、
ゲーム型については前項で論じた。

更にそれを現実に近い世界で実現するにはどうすればいいだろう。
僕は、人に関わることだと思う。


つまり、様々な制約条件のパズルを解くという、
客観解を求めるのではなく、
「この人を攻略すればよい」という方向性にもって行けばいいのだ。

どんな難攻不落な組織も、そのボスの人間さえ倒せば勝ちだ。
(逆に、ボスが倒れたら瓦解するように組織を組んでおく)
どんな冷徹な完全犯罪も、犯人が感情的になればチャンスがある。
どんな無理目の美女でも、心の奥底に触れる何かがあれば、心を開くきっかけになる。

要するに、人間ドラマなのだ。
外的な完璧な構図を、内的ドラマで崩していくのである。
(「デスノート」で完璧な筈のキラが崩れたのは何故か?
人間的な、美学に拘ったせいだ。冷静に徹していれば、完璧になれたのだ。
しかし、人間ゆえ完璧は崩れた。そこが人間的な魅力になった)

外的な問題設定は、実は目眩ましなのだ。
余程の外的問題を面白く見せる奇跡的な解決法がない限りは、
人間ドラマとして描くのだ。
しかも、その方が面白くなる。
感情移入によってである。

人の感情は、何にでも出る。
将棋指しにとっては、
一見記号だらけの棋譜に、
棋士同士の苦悩や勇気や決断や後悔が、
ありありと見えるに違いない。
どんな外的なドラマでも、そこに人間の感情が必ず出る。
それを増幅して、見ごたえのある人間ドラマをつくっていくのだ。

その為に必ず必要なものが、コンフリクトである。

映画は、抽象的な原理と抽象的な原理の対決には、絶対ならない。
それは面白くない。
必ず、人間対人間になる。
感情移入対感情移入に必ずなる。
そして必ずどちらかが勝つ。奇跡的な解決法によって。

あっと驚く解決、ぐらいであれば、
感情移入が十分に出来ている話なら、十分に奇跡的な解決法であることが殆どだ。
ジャンプ的な努力を積み重ねていく話なら、
変化球より直球勝負で勝ったほうが面白かったりもする。
(ドラマ「風魔の小次郎」では、ラストは真っ向勝負に拘った。
勝負を分けたのは、想いや絆の大きさだ。
ちなみに夜叉側に強く感情移入した人もたくさんいて、
それはそれで楽しかっただろう)


奇跡的な解決法は、人間ドラマが巧みなら、
実は必要のないものになってもくる。
納得のいく解決だけが、皆の求めるものになってゆく。

勿論、奇跡的な解決であり、人間ドラマ的な解決としても素晴らしい、
真の名ラストが、名作と呼ばれるだろうことに異論はない。

おそらくだが、それは名どんでん返しと呼ばれる筈だ。
(その典型のひとつが、ビリー・ワイルダーの「情婦」だと思う。
これについては既に書いているので、どんでん返し関連を参考にして頂きたい)
posted by おおおかとしひこ at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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