日本ではとくに、映画というものは、
芸術映画とエンタメ映画に二分する傾向がある。
芸術映画は、なんだか素晴らしいらしいが、
なんだか難解で、見る人を選ぶもので、
一方エンタメ映画は、何も考えず誰でも見れるが、
内容はあっさい感動や笑いしかないものだ。
僕はこの分類は間違いだと思っている。
良作や傑作や名作がこの二分法には入らないし、
凡作や駄作や糞作もこの二分法には入らないからだ。
難解な芸術映画は、脚本家が駄目なだけなのだ。
説明をすれば分かるように、つくるべきなのだ。
説明しなくても分かるように、つくるべきなのだ。
それを怠るのは、脚本家の無能か怠慢のどちらかである。
どんな難しいことも、池上彰の解説のように、
全てをつまびらかにすべきなのだ。
大抵、全てをつまびらかにしてしまったら、
内容の無さがばれてしまうから、
芸術映画はなんだか難しいふりをするのである。
(たとえば佐藤雅彦の「kino」は、まったく映画になりきれていない、
ただの実験映像でしかない。これを映画というには、映画を必死でやっている人に失礼だ)
あるいは、その芸術的な部分を、映画表現に変換しきれていないのだ。
多くのヨーロッパ映画は、物語ではなく詩として映画をとらえることがある。
それは詩の日本語訳があまり意味がないように、
日本語では観賞しきれない、難解なものになる。
例えば俳句をいくら英語に訳しても、全く原語の良さは伝わらないだろう。
俳句は、意味よりも表現を楽しむ、詩の一種である。
例えばマザーグースの言葉遊びには、頭韻や脚韻がふんだんに使われているが、
日本語訳にはそれが入らず、意味のバラバラな単語列になってしまっている。
オシャレ映画も雰囲気映画も同じくだ。
大抵、内容がないものを、芸術の名で誤魔化しているのである。
内容が難しくて分かりにくい映画は、
あなたが馬鹿なのではない。(平均偏差値を大きく下回る方ならごめんなさい)
分かるようにつくっていない、
分かってしまったら内容がないのがばれてしまう、
分かるには原語のニュアンスでないと駄目な、
芸術映画の方が悪い。
そしてあなたは、そのような脚本を書くべきではない。
どんなに深い人間の物語でも、
それを一番深い底で、観客全員が同じように味わえるように、
一番深い底へ連れていくべきなのだ。
深い人間の物語が、ちょっとしか分からないもので、
よくわからないけど深そうだと思い、「ううむ深い」なんてしたり顔をさせるのは、
駄目な映画である。
「ピアノ・レッスン」という名作がある。
セットや衣装や時代背景や世界観がとても芸術的な匂いで出来ている。
しかし物語そのものは、
自分を理解しない童貞臭い夫から逃れて、
自分を理解するワイルドだが優しい彼の元へ逃げる話である。
単なるメロドラマだ。
娘をうまくダシに使おうとして失敗し、悲劇が待つというサブプロットがそれに絡むだけの、
至極単純なお話である。
だから、ダンナは嫌だったね、とか、
娘をダシに使わなくても、とか、
女の悦びはね、とか、
わりと下世話な感想を言うべき、肉体的な物語である。
これが、なんだかいいビジュアルで、
しかもマイケルナイマンの名曲でオブラートされているものだから、
ついつい「芸術的な匂い」を感じるだけなのだ。
古来、お芸術は、ドエロを隠すカモフラージュである。
その西洋の伝統に従ってみれば、実に分かりやすい物語だ。
(「ヘンダーソン夫人の贈り物」というヌード小屋を芸術と称して運営する、
ウェルメイドなコメディがある。それはこの伝統を下敷きにしている)
これを日本では、芸術映画に分類する傾向にある。
まったく、物語の楽しみ方を知らない阿呆である。
「芸術映画」なんてカッコ付けに逃げるな。
(僕が園子温を最も毛嫌いするのは、芸術映画のふりをしてるからである。
あんなものただの馬鹿映画だろう。それを芸術粉飾しているハリボテであることに、
何故誰も言及しないのか。読解力がなさすぎではないか)
全員に話が分かり、なおかつあなたの物語のもつ、
一番深いところへ連れてゆけるようにせよ。
そもそもそれが浅かったり、一部の人間しか理解できないものは芸術ではない。
全員が、深く、味わえるものこそが真の芸術である。
そういう意味では、
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「ロッキー」のようなものこそが、真の芸術だ。
エンタメ映画?阿呆か。テーマなきお子様遊びは、どこかでやっておれ。
2014年08月26日
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