2014年08月27日

「ゼロ・グラビティ」の脚本に足りないもの

今更だがやっと見れたので。
極めてオーソドックスな脚本である。
勉強にとてもいい。途中のひねりでは泣いた。
しかし足りないものが決定的にある。
これを研究することは、
自分の脚本に足りないものは何かを見つける手助けになる。

二幕の出来の良さが完璧である。

二幕は、映画脚本でも最も難しいパートだ。
普通、一幕三幕を書けたとしても、
二幕をここまで出来を良くすることは非常に困難である。
二幕に困ったら、この映画を研究するとよい。
逆に、一幕三幕がこの脚本の弱点である、
珍しいパターンだ。


以下、ネタバレ。


まずは三幕構成を見ていこう。
実にエレガントな、基本通りの構成にひとひねり入れたものだ。

 一幕:事件から旅の出発
 二幕:冒険の旅
 三幕:帰還

の三幕が美しい。


一幕の幕切れ、第一ターニングポイントは、
宇宙遊泳でISSへ向かうと決めたこと、

二幕の幕切れ、第二ターニングポイントは、
絶体絶命のソユーズに幽霊(幻?)のマット
(ジョージ・クルーニー)が現れた直後の、
逆噴射手順をすることだ。


二幕の構造を見て行く。
大きくみっつに分かれる。

 宇宙遊泳(目的はISSへたどり着くこと)、
 ISS(目的はソユーズを切り離し、中国ステーションへ行くこと)、
 ソユーズ(目的は中国ステーションへたどり着くこと)

だ。

ミッドボイントは、ISSで命を確保したところ(胎児のポーズ)だ。
かりそめの勝利であり、まだ戦いの半ばである。



二幕は、実に基本的な構成だ。

障害を乗り越える→ミッドポイント(かりそめの勝利)
→絶体絶命のボトムポイント→大逆転

のオーソドックスパターンである。


シド・フィールドは、二幕の障害は、経験的に4つであると述べているが、
この二幕では、5つある。

 酸素の残量がない(落ち着いて消費量を減らす)
 ISSにつかまる(噴射エネルギーが無い、一発勝負)
 ISS内の火災(ソユーズ切り離しを切迫するイベント)
 パラシュートが引っ掛かっている(船外作業しかない。しかもデブリの嵐!)
 エンジンの燃料切れ(死んだマットが逆噴射のヒントをくれる)

障害は、徐々に大きくなってゆく。
危険はより増大し、やらなければいけない難易度はどんどん上がる。
勿論見ている最中は、今が一番ピンチだと思っている。
それを乗り越え、ひと安心したら、
必ずそれ以上の危機が起こるのだ。
その基本に、全く忠実である。
(後半の船外作業なんて、前半では全く出来ないレベルのことも、
一回それを切り抜けたら出来るようになっている。
「一回出来たら次も出来る」ことが、危機を大きくしてゆくコツかもだ)



この物語は、いわゆるサバイバル映画に属する。
目的は生き延びることだ。

最も原始的なこのタイプの映画は、
人類が生まれたとき以来の根源的テーマを扱う。
だから、最もハラハラする。
しかし、一度映画で見たハラハラは何度も通用しないから、
映画制作者は次々に「新しい危機」を作り出さねばならない。

コマ撮りのクリーチャー(アルゴ探検隊の冒険)、
海(海洋冒険もの)、
ナイアガラの滝(ナイアガラ。マリリン・モンローの出世作)
飛行機のサバイバル(エアポート、大空港シリーズ)、
ビル火災(タワーリングインフェルノ)、
180度ひっくり返った豪華客船(ポセイドンアドベンチャー)、
モンスターたち(80年代のSFX)、
制御されない恐竜(ジュラシックパーク)、
隕石(アルマゲドン)、
逆に閉鎖空間(ゲーム型の映画)、
膨大なCGたち、モンスターや天災や宇宙人の侵略などだ。

これらは、新しい技術が開発され、莫大な初期投資があって、
初めて成立する娯楽である。
「初体験する危機のリアリティー」を描く為だ。
「ゼロ・グラビティ」では、3D宇宙空間という危機空間を初めて成立させた。

サバイバル映画は、新しいフィールドとワンセットになるのである。



冒険の舞台の設定が巧みである。
真の解決(地球への帰還)へのロードマップが分かりやすい。
それらは常にマットから示される。

サバイバル映画は、フィールドと人の戦い(コンフリクト)だと言ってもよい。
我々は恐らく新しいフィールドのサバイバル映画をつくることはないが、
そこら辺にあるフィールドのサバイバル映画をつくる可能性が高い。
だとすれば、フィールドとのコンフリクトだけに頼る訳にはいかない。
そこでコンフリクトを、人とのコンフリクトに置き換えるのだ。
外的環境との戦いではなく、人との戦いにするのである。
凄い特撮ではなく、人間ドラマにするのである。

コンフリクトの相手が違うだけで、
コンフリクトに関する脚本の構造は、
スーパー予算のある新規サバイバル映画だろうが、
普通の映画だろうが同じなのだ。
(例えば「アフリカの女王」というスクリューボールコメディでは、
サバイバル空間を、川下りと戦艦破壊とし、
コンフリクトを男女の恋愛に置いている)

この原理さえ理解できれば、
二幕におけるコンフリクトの構成を研究することは、
あなたに多くの示唆をあたえるはずだ。



さて、この脚本の第二幕での冒険のために、
伏線の張り方が非常に巧みだ。
以下に並べてみよう。

脈拍が速い(呼吸が速い)
青い瞳
毛むくじゃらの男の話
時計を合わせろ、90分後またデブリの嵐が来る※
サンデードライブしてウォッカの隠し場所を教えよう
パラシュートが開いている※
電盤がショートして火花が※
(※印については後述)

「伏線は初出に」の原則を見事に守っている。
それぞれ、
主人公ライアンの登場、
マットの登場、
デブリの嵐が収まった直後、
宇宙遊泳に向かうとき、
ISS到着、
ISSの中に入ったとき直後、
に出ている。

最初からここまで見事に書くことは出来ない。
リライトの末、計算し尽くした配置だろう。

特筆すべきは※印をつけた。
この※印の伏線の危機が、
新しい順に襲ってくることに注意されたい。

さっき伏線を張った火花→それが火災に、
火災をクリアしてソユーズ切り離し→その前に伏線があったパラシュートが引っ掛かる
→船外作業でクリアしようと→最初に伏線を張った、デブリの嵐!

のように、目の前のことから危機が拡大していくように、
逆順に伏線を張っているのだ。
これは計算した上でなくては不可能な構造だ。

これらの伏線は、説明を不要にする力がある。
突然の危機の絵だけ出して、
そういえばそういうこと言ってた!
と、説明で進行を止めず、
絵だけでばんばん進行するための、一種のテクニックだ。
それが三重の逆順構造になっていることが、
巧みなのだ。



そして、この脚本のハイライトは、
マットの再登場である。

まさかの復活と思わせて、実は幽霊?(死にかけたとき見た幻)、
という意外な落ちは見事だ。
台詞が死亡フラグみたいになっていくことで、
徐々に察することが出来る台詞も絶妙だ。
それが、生きることの本質になっていることが絶妙だ。
Enjoy the rideという人生の本質の台詞で、僕は泣いた。

ウォッカの隠し場所、
毛むくじゃらの男の(どうでもいい)話(しかし結末が分からない)、
青い瞳?俺は茶色だぜ、
こんなどうでもいい、しかも、愛すべきディテールが、
本当に見事に人間の本質を描いていると思う。

娘を失い、ただドライブするだけ、
という主人公ライアンの虚無感が効いている。
地上と交信が偶然通じる場面も見事だ。
アメリカ人の好きな、犬を使ってるのも上手い。
それでも生きるんだ、という、
押しつけがましくない、内側から沸き上がってくる、
生きる力の再生の、見事なシーンだ。
(このマットの幻は、主人公ライアンの生きる力の擬人化といってもよい)

このボトムポイントからの大逆転は、
歴史に残る名脚本だと僕は思う。
それまでの外的大冒険からの、
見事に内的な冒険を描ききった。


そして、問題点はここがピークになったことだ。

ここがテーマになってしまい、
このあとの第二ターニングポイント、
中国ステーションへの到着が、クライマックスになってしまったことだ。

ここで始動ボタンを押し、
「私は生きるわマット。妹さんに会って、毛むくじゃらの男の話の続きを聞くの」
で、あとは暗転で地球にたどり着いて終わりとなっても、
なんら問題がない。
(そしてこれで終わったとしても、本作と同じちょっとした不満が残ることに変わりはない)

つまり、中国ステーション後の第三幕は、
絵的なクライマックスだとしても、
ストーリー的にはクライマックスになっていないのだ。
ただ起きたことを時系列で並べただけで、
映画的物語(外的問題と、内的問題の同時解決)
に昇華していないのである。

僕は、彼女が地表にたどり着いたあと、
彼女の最後に言う一言を待った。
ヒューストンに、またはマットに、または自分自身に向けて言う言葉こそが、
この映画のテーマを代表する名台詞になるからだ。

しかしそれはなかった。

「生きてるわ!私生きてるわ!地球って素晴らしい!」
以上の台詞を、勿論期待したのである。
しかしそれは、彼女が笑って、歩き出すのと同等でしかなかった。



サバイバル映画の問題点は、
生き延びることがテーマになってしまう点だ。
生き延びることって何だろう、
人生って何だろう、
この環境って何だろう、
神って、運命って何だろう、
生きた自分と死んだあの人を分ける何かは、
何だったんだろう、
そのようなことに、何かひとつでもその映画なりの結論があれば、
それは映画になり得ると思う。


今思いついたが、地表についたあと、
もう一度幻のマットが出てくるのはどうだろう。
「あんたにもらった命に何の意味があるか、考える時間はたっぷりあるわ。
だって私は生き延びたのだもの。
とりあえず妹さんに会いにいって、毛むくじゃらの男の結末を聞きにいくわ」
で終われば、
何かしらのテーマを語れたのではないだろうか。
(毛むくじゃらの男は、勿論マクガフィンである。
勿論、一幕から別の伏線をはり、
ここで何かを新たに帰結させることも可能である)



どんな面白おかしい冒険があったとしても、
それが「何の意味があるのか」が、テーマの定着である。
「ゼロ・グラビティ」は、新たなサバイバル映画の金字塔を打ち立てたが、
テーマの定着の甘さによって、サバイバル映画のジャンルに収まってしまった、
惜しい映画である。
(アカデミー監督賞、撮影賞、視覚効果賞は取っても、
脚本賞は取っていないことが、ハリウッドがこの脚本を脚本として十分だと認めていない証拠だ)
posted by おおおかとしひこ at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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