小説を少々書いている。そこで何となく分かってきたこと。
物語は、受け手と送り手の間に、
密やかな共犯関係を結ぶものである。
これいいよね、うふふ、ということだ。
例えばテーマやモチーフについては、
小説でも映画でも、共犯関係を持つものだ。
それを取り上げること自体が、
受け手と送り手の共通認識であり、
さあこれについて深く考えようぜ、という送り手の誘いと、
誘いに乗った、という受け手の、一種の信頼のもとで進められる。
ところが。
もう少し周辺で、
映画と小説では、共犯関係を持つところが違うと感じた。
小説でよく言われるのは、文体の魅力である。
描写の文のよさ、哲学や蘊蓄、言葉や意味のセンス、
などの様々な要素を含むと思う。
これは、映画にはない。
正確にいえば、文体は全スタッフで決まる。
絵作り、音楽、テンポなどが、小説でいう文体だ。
が、小説の文体は、
映画でいうところのそれ以上の地位がある。
例えば、絶世の美女を小説で描写するとしよう。
この美女を描写するとき、
外面をスケッチするのは小説では二流だ。
ブロンドの光る髪や、白磁のような肌や、憂いを秘めた瞳と書いても、
それはシャシンの要素を一対一対応で書いただけなのだ。
そうではなく、たとえば、
傾国の美女、と描写するのが小説なのである。
これはシャシンでは表現出来ない。
最高の状態のガッキーや吉永小百合でも表現出来ない。
シャシン表現でない部分の描写こそが、
実は小説描写の肝なのではないかと僕は思うのだ。
広告コピーでよく取り上げられる実例で、
「花束がドアを開けた。」というコピーがある。
花を贈ろうというキャンペーン用なのだが、
ドアを開けると花束をもった人がいた、
という映像的表現より、遥かに小説文体的表現だ。
(しかも映像では、花束の種類を限定する必要がある。
薔薇がベタだろうが、色や花言葉など、色々なブレが出てきて、
花束という抽象表現のような一意性がない)
傾国の美女という、たった五文字の表現は、
小説文体だけに許されたものだ。
これを映像で表現することは出来ない。
この美女を取り合って進むお話は、
映像では傾国ぶりをセットアップして、
客観的な感情移入を伴わない限り表現出来ない。
つまり、観客全員が国を預かった気分にさせ、
国を彼女のために傾けても構わない、
という気分にさせなければならない。
その美女をワンカット撮っただけでそれを示すことは無理で、
プロットと感情移入が必要だろう。
(恐らく外面だけの美しさではなく、
例えば俺のことを必ず本当に分かってくれる、
という女であるとか)
それを、五文字で表現することが、
小説の文体である。
小説の文体とは、そのような意味のワンダーランドが広がっている。
どれだけ自在に表現出来るか、
どんな言葉(意味)の組み合わせがあるか、
どんな豊かな空間か、
が、小説文体の醍醐味だ。
そこに、作り手と送り手の共犯関係があるのだ。
「夏草やつはものどもが夢のあと」は、
夏草をワンショット撮ったり、
それに戦をオーバーラップさせても、表現することが出来ない。
人間とは何だろう、自然はそれを知らず強い、
などの思いは、映像では表現することが出来ない。
一方、映画には、小説にはない共犯関係がある。
それが、焦点と感情移入だと思う。
ある感情移入の状態で、その焦点に集中する面白さは、
言葉に出来ない、リアルタイムの映像体験
(そしてそれはあとになるとよく覚えていられない)である。
受け手は、送り手とそれを共有する共犯関係になるのだ。
詰まらない映画によくある、
今なにやってるのか分からない、
何かをやってても興味が持てずただ進行してるだけ、
というのは、この焦点と感情移入の共犯関係が破綻していることをよく示している。
小説を多少書いてみて思ったのは、
映画的焦点と感情移入は、
小説になかったとしても話を進めることが可能な点だ。
少なくとも映像には、小説文体はない。
従って、これらの共犯関係(しかもかなり重要な)そのものが、
小説と映画では異なるのではないか、
というのが僕の説である。
2014年08月28日
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