前項では、二幕の出来の良さを分析したが、
今回は、足りないものすなわち、
三幕と一幕、すなわちテーマについて議論しよう。
さて、テーマは最もタイトルに現れる。
この映画の原題は「gravity」である。
ラスト、重力に負けずに立ち上がること
(海から上がった生命の進化のアナロジー)の絵や、
その後にタイトルがドンと出て終わることからも、
これをテーマとしようとしたことが伺える。
だとして、これを表現する三幕と一幕になっていないところが、
この脚本の欠点だ。
具体的に見ていこう。
テーマであるところのgravityは、
単純に地球の重力だが、これは、人生を生きる上での困難や制約や危険のような、
ネガティブなもの、であることの象徴でもあるだろう。
(後半戦の流れは完全にそれを暗示している)
だとすると、終着点の「重力のある素晴らしさ」を描くことを固定するならば、
一幕は、「人生で色々嫌な事があること」でなければならない。
大きな意味的構造として、
gravity→ゼログラビティ→gravityの、
テーゼ、アンチテーゼ(スペシャルワールド)、ジンテーゼ
の構造をとるのが三幕構造である。
つまり一幕で、
主人公ライアンにとっての、
「人生の嫌なこと」を描くべきだ。
(直接地上でドラマとして描いても、回想形式でも、子供の死のように語りの中でもよい)
そんな地上のしがらみで溢れるgravityの世界から解放される、
宇宙活動は、息抜き(逃避)になる、というセットアップをするのである。
冒頭15分の長回しはこの映画の素晴らしいオープニングだから、
これをそのまま保存するには、この中で会話として話す形式がよいだろう。
(そのままでは重すぎるから、宇宙任務は何回目?好きかい? ええ。どうしてだい? のような、
簡単な表面的会話にしておくのがよいだろう)
更に深く彼女のプライベートに入り込んでいくには、
元と同じ、宇宙遊泳で彼女を落ち着かせるために、語らせても良い。
gravityの世界も色々あるが、ゼログラビティの世界はもっと危険に満ちていることを、
二幕で散々体験するのである。
そうすれば、ボトムポイントで、
それでもあのクソッタレな世界に、帰りたいと言わせる事が出来る。
gravityの世界は、嫌な事ばかりじゃなくて、素晴らしいところも沢山あったはずだ、
戻りたいあそこへ、という解釈を180度変えることでの、
リバーサルを描くことができる。
ゼログラビティでの危険な旅を通して、
ライアンは、gravityの世界のかけがえのなさを学んだ、という話に出来る筈だ。
大きくはこの三幕構造をつくればよいだろう。
ただ、三幕に何をクライマックスにするかは難しい。
たとえば、「彼女の孤独なドライブ」と引っ掛けることで完成すると思う。
「どこへ行く目的でもないドライブは、必ず帰る場所があるから成立するのだ」
などのような理屈に、彼女に気づかせるべきである。
中国ステーションからポッドで脱出するとき、
「これまで訓練で失敗した運転」を成功させる条件は何か、
という伏線をここで回収できれば、彼女のクライマックスになる筈だ。
「地上には、(重力や空気摩擦などの)抵抗があることを理解する」
(それに抵抗し、制御することこそが生命の本質)
ことが、テーマと関連して、よいのではないか。
このように、三幕での「昇華」は、
一幕で彼女が何を自分の内的問題としていたか、
ということに関係しなければならない。
外的問題、すなわち地球(重力のある世界)への帰還と、
彼女の内的問題、すなわち人生の制約へのあきらめから、
生きる事の素晴らしさへ転換すること、
が、同時にカタルシスを迎えなければならないのだ。
その内的旅としての二幕は、少々甘い気がしなくもない。
マットとの前半部の会話と、AMラジオで偶然地上と交信できた事、
「幻の」マットとの会話、
この3シーンしかないからだ。
どうしてマットは危機にあっても笑っていられるのか、
マットのいつも歌う歌になんの意味があるのか、
つまり、マットが人生を素晴らしいと思っている理由は何か、
そのあたりを掘り下げていければ、
ライアンとコンフリクトをつくれただろう。
なにゆえ、「enjoy the ride」にたどり着いたのか、
というそのエピソードがあれば、彼がどうgravityのことを思っていたかがあれば、
ライアンの内的旅の過程になったはずだ。
さて、遅ればせながら、ネットの評判などを読んでみた。
一番多いのは、邦題が「ゼロ・グラビティ」でよいのか、という話題だ。
テーマがgravityだから、というのがその理由だが、
上で議論した通り、この映画はgravityを、「重力」以上の、
人生でのネガティブなことに象徴しきれてはいない。
だから、ラストシーンで、
「娘の死のトラウマを解消し、彼女の人生の目的が出来た」と解釈するのは、強引である。
(そのようになっているのが理想である事を、無意識に思っているのは確かだ)
このようになっていないから、
「テーマがgravityである」にはなっていない。
(重力のある世界=地球や生命の素晴らしさ、ぐらいまでは来てはいる)
したがって、タイトルはgravityだが、
内容はgravityではないのだ。
作品のコンセプト(お楽しみポイント)は、「無重力世界のサバイバル」だ。
だから、そこを強調して「ゼロ・グラビティ」と邦題をつけるのは、
それほど間違っていない。
「ジョーズ」が「ジョーズとの戦い」をお楽しみポイントにし、
それをタイトルにつけることと同じだからだ。
問題は、それと近すぎる言葉が原題になってしまったことに過ぎない。
gravityが人生でのネガティブなことをうまく象徴し、
彼女がそれを克服することがクライマックスになり、
それがgravityのある世界への帰還になれば、
この映画はgravityをテーマに、ゼログラビティをモチーフにした、
「映画」になりえたことだと思う。
そこまで出来ていれば、
「ゼロ・グラビティ」などという「テーマと乖離した陳腐な邦題」ではなく、
「重力」という邦題だったかもしれない。
(gravityと人生でのネガティブさを同時に表す単語があれば、完璧だが、
日本語にそれはなさそうだ。だから「グラビティ」になるかも知れないが。
8/29追記:「重さのある世界」はどうだろう。
このように日本語でタイトルを表現してみると、その要素が一幕や三幕に不足していることが、
ありありと分かる)
タイトルが第二幕でのスペシャルワールドでの冒険を示していること自体、
この映画がアトラクションムービーであることの示唆である。
2014年08月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック