誰でも創作の初期というものは、そんなものだ。
好きなお話や世界に影響を受け、
それの変形をしながら、
創作の楽しみを知ってゆくのである。
好きな世界観、好きなスタイル、好きな人物を真似しながら、
徐々に独自のものを入れて行くのだ。
守破離という習い事の原則でいえば、
それはまだ破の段階である。
離の段階からが、初めて創作だ。
離という言葉が示すように、
あなたはこれまで慣れ親しんできた世界観、スタイル、人物を、
離れなくてはならない。
親離れのように、学校の卒業のように、
一人立ちしなければならない。
以前の巣に似たことをしてはならない。
それは離ではない。
あなた独自の世界観、スタイル、人物像、
ストーリー、テーマ、(ひょっとしたらジャンルも)
でなければならない。
それは恐ろしく孤独なことを意味する。
命綱を離す行為だ。
僕は、学生創作サークルの馴れ合いが好きではなかった。
命綱を離し、離の世界へいくことが怖いから、
一緒にいることで互いに安心しているような空気を感じたからだ。
大学時代漫研を最初に覗いてすぐやめ、
次に映研(京大雪だるまプロ)に入ったのは、
監督が馴れ合いではなく孤高の雰囲気を持っていたからだ。
(しかしその人はサークルには来ず、
その後フジTVに入り数々のドラマを仕掛けたプロデューサーになった)
孤高はポーズではなく、離の世界に身をおくことの、
覚悟だと思う。
人間というものは放っておけば安易な方向へゆくものだ。
慣れ親しんできたものを模倣し、満足してしまう。
流行というのも、ある種の模倣である。
我々は、離によって、
他者が模倣したくなるものをつくることが仕事だ。
他者が守破をしたくなるものをつくることが仕事だ。
趣味でやる二次創作は、趣味ならばそれでよい。
それは創作でないことを自覚しているのならよい。
それと創作が別であることを自覚しているのならよい。
そこから命綱を離し、
どこにいるかが、創作だ。
新作を思いつき、書きはじめるが途中で挫折するのは、
命綱を離したその先をイメージしきれていないことに起因すると、
僕は思う。
真空の誰もいない空間に、ストーリーと世界の芽をまき、
真空だけで巨木にするのが、我々の仕事だ。
栄養分は、自らの妄想のみである。
創作をする者は、だから狂気と紙一重だと思う。
(自殺や鬱や薬物や、スランプや枯渇もあるしね)
それを乗り越えて創作し続ける者だけが、
ようやく離の世界で生き続けられるのだ。
守破の世界は楽しい。仲間も沢山いる。
離の絶対孤独からが、勝負だ。
そこで名作をモノにした者だけが、賞賛される世界である。
原作ものや誰かの褌を借りようとする者は、
創作の覚悟がなっていない。
(言い訳かも知れないけど、風魔もいけちゃんも、
オリジナルと原作の奇跡的融合をなし得た作品だと思う)
2014年08月29日
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