2014年08月29日

物真似から入る創作

誰でも創作の初期というものは、そんなものだ。
好きなお話や世界に影響を受け、
それの変形をしながら、
創作の楽しみを知ってゆくのである。

好きな世界観、好きなスタイル、好きな人物を真似しながら、
徐々に独自のものを入れて行くのだ。

守破離という習い事の原則でいえば、
それはまだ破の段階である。
離の段階からが、初めて創作だ。


離という言葉が示すように、
あなたはこれまで慣れ親しんできた世界観、スタイル、人物を、
離れなくてはならない。
親離れのように、学校の卒業のように、
一人立ちしなければならない。
以前の巣に似たことをしてはならない。
それは離ではない。

あなた独自の世界観、スタイル、人物像、
ストーリー、テーマ、(ひょっとしたらジャンルも)
でなければならない。

それは恐ろしく孤独なことを意味する。
命綱を離す行為だ。
僕は、学生創作サークルの馴れ合いが好きではなかった。
命綱を離し、離の世界へいくことが怖いから、
一緒にいることで互いに安心しているような空気を感じたからだ。
大学時代漫研を最初に覗いてすぐやめ、
次に映研(京大雪だるまプロ)に入ったのは、
監督が馴れ合いではなく孤高の雰囲気を持っていたからだ。
(しかしその人はサークルには来ず、
その後フジTVに入り数々のドラマを仕掛けたプロデューサーになった)
孤高はポーズではなく、離の世界に身をおくことの、
覚悟だと思う。

人間というものは放っておけば安易な方向へゆくものだ。
慣れ親しんできたものを模倣し、満足してしまう。
流行というのも、ある種の模倣である。

我々は、離によって、
他者が模倣したくなるものをつくることが仕事だ。
他者が守破をしたくなるものをつくることが仕事だ。


趣味でやる二次創作は、趣味ならばそれでよい。
それは創作でないことを自覚しているのならよい。
それと創作が別であることを自覚しているのならよい。
そこから命綱を離し、
どこにいるかが、創作だ。


新作を思いつき、書きはじめるが途中で挫折するのは、
命綱を離したその先をイメージしきれていないことに起因すると、
僕は思う。

真空の誰もいない空間に、ストーリーと世界の芽をまき、
真空だけで巨木にするのが、我々の仕事だ。
栄養分は、自らの妄想のみである。
創作をする者は、だから狂気と紙一重だと思う。
(自殺や鬱や薬物や、スランプや枯渇もあるしね)
それを乗り越えて創作し続ける者だけが、
ようやく離の世界で生き続けられるのだ。

守破の世界は楽しい。仲間も沢山いる。
離の絶対孤独からが、勝負だ。
そこで名作をモノにした者だけが、賞賛される世界である。

原作ものや誰かの褌を借りようとする者は、
創作の覚悟がなっていない。


(言い訳かも知れないけど、風魔もいけちゃんも、
オリジナルと原作の奇跡的融合をなし得た作品だと思う)
posted by おおおかとしひこ at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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