2014年08月31日

絵がなくても面白い話

映画の脚本が面白いかどうかの、ひとつの条件。
それは、絵がなくても面白い話かどうかだ。
素人は、映画は絵で見せる娯楽だと勘違いしている。

さて、どういうことだろう。


正確に言うと、
「この場面は美しく凄い絵でなければ成立しない、
という場面がなくとも、面白い話」が理想なのだ。

たとえショボい絵や、上手く撮れていなかったとしても、
文脈や台詞や展開が面白い脚本が、
面白い脚本なのだ。
それは、話そのものが面白いということだ。

勿論、お金をかけたりビジュアルスタッフが優秀であれば、
とある場面が美しく凄い絵になる可能性は高い。
しかし、仮にそうでなかったとしても、
ストーリーそのものが良ければ、映画は面白いのだ。

何度も例に出す、「風魔の小次郎」はその典型だ。
絵はショボい(頑張ってるけど安い)。
芝居も最初はそんなに上手くない。
にも関わらず、それに慣れてしまえば、
話そのものの面白さの方が重要だと分かるだろう。

例えば10話の告白は名場面である。

しかし思い出して欲しい。
あそこは、鉄骨数本だけのヘボいセットだ。
良く見れば分かるが、歩いただけで揺れるような、
たわむような足場の柔らかさである。
しかし、話の進行や台詞の良さ(演技の良さもある)だけで、
あの場面は絵の安さを凌駕しているのだ。
二人が見た「美しい風景」なんて合成だ。
しかし、我々の目には、二人が見た一生の思い出に残る風景として記憶された筈だ。

しかも良く見れば分かるが、
当日の天気は曇りだ。夕日はライトでつくっているのだ。
(アップが多いから誤魔化せている。背景の空の黒雲に注目)

お金のある作品なら、
もっと凄いセットをつくる。
電波塔(東京タワーではない)の広い足場をつくり、
二人の全身のショットを抑え、ワイヤーアクションで二人がやってくる所から撮れる。
美しい夕日が出るまで、ちゃんと待つ。
(その日が曇りなら、撮休にしたり、何日もかけて撮る)
そうすれば、もっともっと美しい絵が撮れた。

が、美しい絵に頼っていない、
二人の台詞劇が素晴らしいからこそ、
あの場面は素晴らしいのだ。
もしあれが例えば、
「夕日きれいー」「それぐらい美しい姫が好きです」「まあ」
ぐらいのヘボい脚本ならば、
「美しい絵でもない限り持たない」話になってしまう。
美しい絵を撮る予算がないからこそ、
絵で勝負しない、話(台詞劇の良さ)で勝負したのだ。
(10話の脚本はクレジットと違い、ほぼ僕が書いている)



素人の脚本と、玄人の脚本を見分ける簡単な方法。
この絵が美しく凄い絵にならないと、面白くない脚本が素人。
例え絵がショボくても、絵に左右されない、話そのものが面白い脚本が玄人。

風魔では、必殺技やアクションは、
それでも絵が良くないと成立しないパートだ。
だからどの話も、そこは時間をかけ(CGの予算をほぼそこにぶっこみ)、
ちゃんと作っている。
勿論そこはプロのハッタリを効かして、
すげえ、と言われるように計算してあるのである。


仮に、アクションやCGがヘボかったら風魔は詰まらなかっただろうか。
多分、面白かったと思うよ。
仮に、絵がすごくて、脚本が原作通りのドラマだけだったら?
多分、詰まらないと思うよ。(舞台版を思いだそう)


極論すれば、
絵なんてなくてもお話は語れるのだ。
だって今日あったことを話すとき、その絵はないでしょう?
なくたって、人は頭の中で絵を補完するのだ。



もしあなたの脚本が、
ここはどうしてもいい絵でなければ成立しない、
という場面があり、それが沢山あるのなら、
それは、話が面白い脚本では、決してない。
(あまりにも美しい○○に感動する、とか、
あまりにも美しい音楽に感動する、とかは危険の兆候だ。
だから、「ハチミツとクローバー」という絵に頼った物語は、失敗するのだ。
部分部分の話は面白いけど、全体はキツイ)

これが分かってくると、
絵と話を、ようやく分離しながら見れるようになる。
話は話、絵は絵。
我々は面白い「話」をつくるのが仕事だ。
お金があり、優秀なビジュアルスタッフがつけば、
それはいい絵でつくってくれるだろう、ぐらいのことだ。
絵が先にあるのではない。
話が先にあるのだ。
(絵だけ先行して話のヘボかった、ペプシ桃太郎を思いだそう)
posted by おおおかとしひこ at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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