2014年09月04日

サービスは人を堕落させる(メアリースーが何故生まれるか)

あらゆるサービスは、
手を抜きたい願望を叶える。

サービスが機械によるものだろうが、人の手によるものだろうが。



昭和の家電革命をまず考えよう。
洗濯機と掃除機は、機械が家事を半分肩代わりしてくれた。
乾燥まで含む全自動洗濯機に至っては、洗濯がなくなったかのようだ。
たらいと洗濯板でごしごしと洗濯を毎日したことのある人は、
日本にはそろそろいなくなるかも知れない。
(ドカベンなど昭和の漫画には、まだマネージャーが
タライで洗濯するシーンを見ることが出来る)
掃除もルンバがあればかなり楽になるかも知れない。
外食産業は、毎日食事をつくることをやめさせた。
工場にロボットが導入されたことで、
ベルトコンベアーの単純労働はなくなった。

人が嫌だなと思うことを、肩代わりさせてきた。
さらに、機械だけじゃ出来ないことを、
人がサービスする。

給仕は古典的な人的サービスだ。
会計士もサービスだ。
キャバクラは、話を聞くサービスだ。
その他、人が嫌だなと思うことを肩代わりするサービス業は沢山ある。
風俗も介護もサービスだ。

肩代わりされたそのことは、
いちいちやるのはとても面倒なことばかりだ。
だから楽をしたいことに、サービス側はつけこんで金を取っていく。

ところが、その面倒なことがなくなるのが良くない。

例えば、生まれてこのかた掃除をしたことのない大人を考えてみよう。
面倒や苦労をして、学ぶことを彼は出来ない。
例えば、
世界は放っておくとカオスに飲み込まれていくこと。
細かい所に目がいかないと大変なことになること。
虫は何処にでもいること。そして恐らく根絶は難しいこと。
あることの為にあることをやらなければいけないこと。
その為に段取りというものがあること。
無心になることは、意外と大事なこと。
積もり積もることの恐ろしさ。
誰かが掃除している場所は、その人の大事な場所だということ。
掃除前提で、自分の生活を整理しながら運営すること。
などを、自得することは出来ない。

一通り大体分かってから、誰かに頼むのはまあアリだ。
忙しい現代人は、何かを誰かに肩代わりさせることで時間を稼ぐ。
(だからカウンターカルチャーとしてのロハスがある。
ファッションでしかなかったが)
問題は、苦労して自得しない者が、
永遠に肩代わりさせている場合だ。

掃除をしたことのない大人は、掃除から学んだことのない人だ。
掃除だけしたことのない人で、他を苦労してやっているのならまだ問題ない。
数あるサービス業を最初から利用し、
苦労して自得する経験そのものをしていないことが問題だ。

サービス業に金を払い、余った時間で他の苦労に使うならまだ分かる。
しかし、苦労が嫌だからサービス業に金を払うのであり、
そんな人は苦労をなるべく一生避けるようにするものだ。

つまり、サービスは人を堕落させる。
人は、サービス業がはびこるせいで、
何かを苦労して達成し、失敗したり成功しながら、何かを学ぶという、
「経験」を奪われている。

サービスされ続けた人は、
手足をもがれた王様になる。
自分では何も出来ない、サービスに文句をいうだけの王様にだ。
金払ってんだから最大のサービスをしろよ、という、
俺というお客様が神様だになる。
(本来、お客様は神様、というキャッチコピーは、
サービス業からの目線でしかない。
何でもお見通しの神様に見てもらう気持ちで、
真摯に接しなさい、でしかないと思う)


さて、これまでは一般的な話で、これからが本題だ。

このサービス現象の蔓延により、
物語がサービスしなければいけなくなったのだ。



物語というものは、
その世界に入り込む苦労を、いくばくかしなければいけない。

その世界設定をきちんと把握したり、
主人公の気持ちになってみたり、
登場人物の裏の気持ちを考えたり、
これからどんなことがあるか想像したり、
結末にショックを受けたり、その後を想像したり。
終わったあと、それにどんな意味があるか考えたり。

その「想像すること」が、
物語を楽しむことでもあり、
(慣れていない人には)多少苦労することでもある。
(例えば初めて見る監督だと、リズムやテンポの癖をつかむ必要がある。
小説なら特に、文体が肌に合わない作家もいるだろう)
それは、受け手がある種の苦労をすることで、
経験を積んでいくことに当たる。

あるいは、作家側も苦労しなければならない。
批判や悪口に身を切られる思いをしたり、
お門違いの批判は批判ではないということに気づいたり、
真の批判を受けないものとはどういうことか考えたり、
上手く話が出来ないことに地獄の苦しみを味わい、
自分の無意識がつい出ていて、それを指摘されて傷つき、
自分の思いに対して筆の拙さに苦しみ、
より鍛えることに苦労し、
先人の到達に遥か及ばないことに絶望しなければ、
物書きとしての経験を積むことは出来ず、成長しない。

問題は、その苦労を、嫌がる人が増えたということなのだ。

サービスの蔓延が原因かどうかは分からない。
しかし、それと同じことが起こっている。


さて、これまでの議論は、メアリースーが何故出現してしまうのか、
という疑問への、前提の議論だ。

サービスは人を堕落させる。
人は苦労をしたくなくなった。
だから、物語がサービスに置き換えられようとしている。

この前提で、本論に入るとしよう。つづく。
posted by おおおかとしひこ at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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