2014年09月04日

メアリースーが何故現れるか(本論)

この議論の前提は、前の記事、前の前の記事を参考に。

メアリースーとは、二次創作におけるオリジナルキャラで、
それが大抵痛い事になる、ということを揶揄したキャラだ。


もともと二次創作などのファン創作的な範囲での話だが、
僕は、一次創作、つまりオリジナルにも現れると思う。

なぜなら、それは「作家としての未熟」が原因だからである。


議論の前提として、サービス過剰の蔓延がある。
人は「手を抜くこと」からはじまって、
もはや「サービスされなければ不満」というところまで来ていると思う。


物語の読解は、ある種の苦痛を伴う。
最初の人間関係の説明とか設定はなるべく飛ばしたい。

だから、サービスを入れる。

すごい事件からはじめて釘付けにし、最初の苦痛のハードルを下げる。

ときどき事件と登場人物の整理場面がある。
(元々火サスなどで、途中から見る人用に、1時間あたりで整理するふりをして、
新たな視聴者を離さないテクニックだった。
それが、親切にもそのような場面がなければならないという脅迫を生んでいる。
そんな整理場面がなくとも、話が分かるように書くものが極上のシナリオである)

類型的な登場人物を出す事で、テンプレにして分かりやすくする。

ストーリー展開も類型にして、テンプレのアウトプットを期待させる。
(「泣ける映画」「笑える映画」など。映画を見る事は、それだけを求めることか。否である)
ある種のジャンルムービー
(やくざ物、推理物、アクション物、ラブコメなど)は、
毎回同じようなプログラムピクチャーになりうる。
いつものパターンを、旬な役者で置き換えるだけだ。
(テレビや映画や演劇などの「消えてなくなるもの」ならそれも需要があるが、
小説のような「残るもの」でプログラムピクチャーはありえない。
それは、オリジナルではないからだ。あるとすれば、入門や教科書であろう)

また、人気芸能人は、別人の役を演じるのではなく、
その芸能人的な役を演じる。
(メアリースーテストの乗っている元サイトには、
「石田純一はいつも不倫する役」と上手く表現されている)



物語におけるサービスとは、裸シーンのことではなく、
「読解に要する労力を減らす事」に他ならない。

しかし物語の楽しみとは、「読解すること」にある。
パズルをつくるのが楽しみなのに、パズルの答えが乗っているようなものである。

それはつまり、自分の気持ちを何もかも言う台詞などに現れる。
読解する労力を、しなくて全部いいですよ、というシナリオに、サービスするのだ。


最初はほんとにサービスだけだったかも知れない。
分かりにくい話を分かりやすくする、テクニックだったかも知れない。

しかし、人はサービスで堕落する。
サービスされないと不満になってくるのだ。

ちょっと難しくて読解に考えを要するものより、
何でも解説してくれて、頭を使わなくて済むものを好むようになるのである。


だから、そのような人たちが好むものは、
「答えのあるもの」だ。
答えのないものを必死で考える事を放棄し、
「答え合わせをする」ことが、物語を楽しむ事だと勘違いするのである。


2000年代あたりから、テレビドラマはそのようになってしまったと思う。
全部ではなく、傾向の話だ。
だから詰まらない。人気芸能人だけが人気のバロメーターになる。
(だっておかしいでしょ。キャストだけで物語の善し悪しは決まらないでしょ。
「出来」というものが、物語には決定的でしょ)


さてさて。それが蔓延すると、それが常態になる。
苦労して読解する物語ではなく、答え合わせをする見方が、
残念ながら主流であり常態となる。
(なんなら、感情移入やら、登場人物の気持ちを想像する事や、
焦点やらの古典的物語作法は、今のテレビドラマでは、
古いとまで言われているかも知れない)

それが今の「客」の現状だ。サービス蔓延状態なのだ。
それは、古典的物語の読解の形式、
つまり文字で書かれていない行間を読み取る事や、
自分に引き寄せて想像する事や、
省略されていることを想像する事や、
他人の痛みや悲しみや悦びや達成を我が事のように思う事、
などを、事実上拒否しているのだ。

卵が先か鶏が先か、の原理だが、
サービスだけの物語と、サービスされていないと物語が読めない客だけが、
今不毛の地に残されているのである。

勿論、そうじゃない古典的な人は沢山いるし、
そのほうが多数派のサイレントマジョリティだと思いたいが、
これはマーケティングデータで読み取る事が出来ない。
マーケが把握するのは苦情のみだからだ。
(僕はマーケティングのやり方が間違っていると思っている)



さて。

サービスされるだけの物語、サービスされるだけの人生の人たちが物語を作るとどうなるか。

サービスされるだけの主人公が出来上がるのである。
これがメアリースーの正体である。



メアリースー型のキャラクターの特徴は、以下である。
・自分から行動しない。自分で責任を負わない。
・コミニュケーション能力はない。相手が汲み取ってくれる。
・最初から全員に歓迎されている。問題はあっても、最後まで愛されている。
 常に話題の中心になり、主人公の扱いを受ける。
・それだけだとオカシイというバランス感覚が働くのか、
 大抵特別な血筋とか、特殊能力持ちである。神に等しい力でも良い。
・しかしその特別能力は、いざというとき、最後にちょろっと使うだけだ。
 なぜなら、特別な力の責任を負わない(最初に戻る)からだ。

これは、サービスを最初から利用し、
自分で苦労して色々な事を自得したことのない人の、パーソナリティーである。

僕はこれは一種の精神疾患(またはその予備軍)ではないかと思う。
メアリースー症候群といってもいいくらいだ。



物語とは、人生だ。
問題があり、他人ともめごとを起こし、
自らの知恵と勇気で、行動して解決するものだ。
その過程で自らの内的問題に直面し、それをも解決して昇華しなければならない。
(それをカタルシスという)

メアリースーは、その苦労から最も遠いパーソナリティーなのだ。

ヘタクソな最近の邦画の、メアリースーを挙げてみよう。
「ガッチャマン」の大鷲の健、「キャプテンハーロック(CG版)」のハーロック、
「タイムスクープハンター(劇場版)」の主人公(名前失念)、
「るろうに剣心〜京都大火編」の剣心、「Re: cyborg 009」の009、
「CASSHERN」のキャシャーン、
「犬と私の10の約束」の主人公の糞女、
などなど、僕が毎回吐きそうになっている中二病的キャラクター達である。

力がありながら、責任能力がなく、それを行使する事もせず、
ただ悩むだけだ。
物語を自ら動かさず、誰かが動かしてくれたらそれに反応する。
何故か愛されていて、嫌われる事はない。
それは自分の能力ゆえなのか、本人のパーソナリティーなのかも明かされず、
ただ全面的に認められている。

それは、「サービスされ続ける人」のパーソナリティーだ。
前の記事のたとえで言えば、「一度も掃除をしたことのない人」だ。


その真逆は、
「スパイダーマン(1、2)」のスパイダーマンである。
きっかけは単なる事故だったとしても、
「大いなる力には、大きなる責任が伴う」事を知り、実行する。
(Great power has great responsibility.という、たった五語の名台詞である)
あるいは「キックアス」のキックアスだ。


何故あなたは、メアリースーを主人公にしてしまうのか。
何故メアリースーが現れてしまうのか。

未熟だからだ。
現実世界で大人になっていないからだ。
現実世界で大人として行動していても、心根の奥底が子供だからだ。
サービスしかされたことがないからだ。
それが当たり前(あるいは理想)だと思っているからだ。

大人の人生とは、極端にいえば、「誰かを幸せにすること」であり、
「自分が幸せにされ続けること」ではない。それは子供の人生だ。
それを知らない未熟者が、メアリースーを出現させる。



さて、これは作家個人の内面の話だけではない。

昨今は、内容をコントロールするチームがいることがある。
CMなら宣伝をしたい会社そのものや広告代理店、
ドラマなら人気芸能人を握る事務所やスポンサー、
映画なら制作委員会。
彼らの中にメアリースーがいることがある。
これを自覚していないチームの方が多い。

次回は、その問題を議論しよう。
posted by おおおかとしひこ at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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